2024年8月20日火曜日

伝馬町一里塚の本来の場所の調査

先日、名古屋から豊橋まで東海道に沿って歩いてみました。その際に一里塚の写真を撮影しながら歩いていたのですが、後で調べたところ伝馬町一里塚の場所が間違っているかもしれないということを聞きました。そこでその真偽を調査した結果を記述します。

1. 背景知識

東海道の一里塚は江戸の日本橋から一里(約4km)ごとに築かれた塚で、道の両側に作った盛土にエノキやマツが植えられていたものです[1]。愛知県だと来迎寺一里塚の保存状態が良く、道の両側の盛土が今でも残っています。


保存状態の良い来迎寺一里塚

伝馬町一里塚もそういった東海道沿いに築かれた一里塚のひとつなのですが、現在その面影は残っていません。『史跡あつた』には「ほとんど人々の気づかない間に姿を失ってしまった」ようで、南側の方の塚は「明治末期頃まで見ることができたが、いつのまにか姿を消してしまった」とのことである[1]。 
しかしGoogle Mapで調べると伝馬町一里塚の跡とされる場所が表示され、そこにはそこが伝馬町一里塚のあった場所だと主張する看板さえ立っている。それが正しければなんの問題もなかったのだが、この場所が間違っているらしいのだ。

Google Mapで示される伝馬町一里塚跡の写真。一里塚のような雰囲気はあるが……

各地の一里塚の写真などを掲載されているサイトには、古文書を元に調査したあ結果、正しい場所ではないという説があると書かれている[2][3]。しかしその古文書が何なのか、本当の場所はどこなのかは書かれていない。

2. 伝馬町一里塚の本当の場所はどこなのか

まずインターネットで調査すると、「名古屋市文化財保護室の伊藤厚史さんによると、元々、塚があった場所は改修された新堀川の底に沈んでいる」という事柄が朝日新聞の記事に掲載されているのを発見した[6]。文化財保護室の人ということで信憑性の高い情報になるが、文献などは記されていない。また熱田区の歴史を調べている個人のブログに「本来の一里塚は、おそらく国道1号線の新堀川に架かる新熱田橋付近と思われる」という記述がある[7]。この記事では『尾張国町村絵図』を引用しつつ築出鳥居の位置を推定しているが、その地図には一里塚が写っており、確かに現在の看板よりも東に一里塚が描かれている。また平凡社の『愛知県の地名』の174ページに、「裁断橋の東に熱田社の築出鳥居があり,近くに一里塚があった」と書かれているようです[5]。

国立国会図書館デジタルコレクションで書籍の情報を調査しましたが、『史跡あつた』に「八町畷を過ぎ宮の入口にかかる両側にあった」というざっくりした記述が確認できたのみでした[1]。八町畷という地名はどうやら今は残っていないようだが、「明治天皇八町畷御野立所」という場所が東ノ宮神社にあるようです。八町畷の範囲はわからないものの、この場所は現在看板がある場所から1kmほど東の場所にあり、この記述からでは正確な一里塚の位置はわかりません。

3. 古地図を現在の地図と重ね合わせる

幸い熱田神宮というかなり由緒正しい神社が近くにあったおかげで、このあたりの古地図はかなり多く残されているようです。閲覧しやすいものだと『名古屋市史 地図』に「熱田神領字入圖」が掲載されています[8]。これは文化元年(1804年)に作られたものを安政6年(1859年)に写したもののようです。築出鳥居の東に道の両側に木の絵が書かれており、これが一里塚だと思われます。その他にも『尾張国町村絵図』など多くの書籍でこの地域の地図は確認できるようです[9][11]。

私は愛知県図書館に所蔵されていた『蓬左文庫所蔵古地図複製 No.10』の一里塚周辺の地図を複写してきたので、それを現在の地図と重ね合わせてみたいと思います。下図がその複写で、写真の右側にある道に「一リツカ」と書かれています。


『蓬左文庫所蔵古地図複製 No.10』の複写。実際のものは熱田神宮全体を描いた大きな地図でフルカラーである。複写機に写しきれなかったので一部分になる。天保年間の写しということで著作権は切れている。

さてこれを現在の地図と重ね合わせてみます。QGISというフリーのGIS(地理情報システム)のジオリファレンスという機能を使うと、縮尺や方角などがわからない地図を重ね合わせることができます。古地図に掲載されているもので現在にも残っている場所としては宮の渡し公園にある「熱田湊常夜灯」、精進川(現在の新堀川)と東海道が交わる場所にある「姥堂」、「景清社」、「善福寺」などがあります。それらの点を入力した結果、このような形になりました。なお背景に使っているのは国土地理院の基盤地図情報です[10]。

古地図と現在の地図を重ね合わせた図

現在と当時では場所が変わっていたり、そもそも元の地図が不正確だったりするためピッタリ合うわけではないですが、それでも現在の地図とかなり沿った状態で重ね合わさっています。これを見る限りでは確かに一里塚は新堀川のすぐ近くにあり、名古屋市文化財保護室の方の「新堀川の底に沈んでいる」という言葉と概ね合致します。なお『尾張国町村絵図』も図書館で複写してきて重ね合わせたところほぼ同じ場所に重なりました。ただし、局所的には重なっているのですが大域的には重なっているとは言い難いため、ここでは言及するにとどめます。

4. まとめ

現在看板が建てられている場所と実際の場所がことなると言われている伝馬町一里塚の場所を、愛知県図書館所蔵の古地図『蓬左文庫所蔵古地図複製 No.10』を参照して調査した。古地図の誤差や重ね合わせの誤差などはあるものの、概ね現在の新堀川のすぐ近く、熱田橋周辺であると推定された。この結果は名古屋市文化財保護室の方の「新堀川の底に沈んでいる」という発言と概ね合致しており、この発言の信憑性を裏付けるものとなった。

[1] 熱田研究よもぎの会 編『史跡あつた』(1962)  https://dl.ndl.go.jp/pid/2975735/1/31
[2] 東海道一里塚 東海道の一里塚 伝馬町里塚 でんま町一里塚 http://itirituka.rakuchu-rakugai.com/matome119/tuka84.html
[3] 東海道:伝馬町一里塚 http://hat.la.coocan.jp/data/tokaido/tokaido089.htm
[4] 明治天皇八町畷御野立所 | 明治天皇聖蹟巡り https://meiji.fromnara.com/2020/02/23/明治天皇八町畷御野立所
[5] ふらっと旧東海道/愛知県・熱田伝馬町一里塚 https://www.asahi-net.or.jp/~vn6i-hgwr/toukaidou/atsuta-denmatyou.htm
[6] 朝日新聞デジタル:街道こぼれ話)一里塚 - 愛知 - 地域 http://www.asahi.com/area/aichi/articles/MTW20180731241640006.html
[7] 火高地古道(ひたかじのふるみち) : 尾張名所図会を巡る https://nitibotu.exblog.jp/9767000/
[8] 名古屋市 編『名古屋市史 地図』 https://dl.ndl.go.jp/pid/3449146/1/66
[9] レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000072751
[10] 基盤地図情報ダウンロードサービス https://fgd.gsi.go.jp/download/menu.php
[11] 徳川黎明会 編『尾張国町村絵図 名古屋市域編』(1988)   https://www.library.city.nagoya.jp/licsxp-opac/WOpacTifTilListToTifTilDetailAction.do?urlNotFlag=1