# 概要
『少女革命ウテナ』の「若葉繁れる」は私が最も好きな話の一つである。この話は幾原邦彦監督が描きたいテーマがよく現れていることが、『輪るピングドラム』の主人公たちの立場を見るとよく分かる。この話の類話を無限に読みたいのだがあまり見つけられていないので、ひとまずこの「若葉繁れる」、アニメ『美少女戦士セーラームーン』の23話、24話についてすこし時間をかけて考えることで気持ちを抑えたいと思う。初回はこの話のあらすじと、面白い悲劇は悪意は少ないほど、善意は多いほど面白いのだという主張をまとめる。
# サブタイトル「若葉繁れる」について
色々話す前にまずは解題をしておこう。タイトルの「若葉繁れる」はおそらく井上ひさしの『青葉繁れる』から来ていると思われる。『青葉繁れる』は井上ひさしの子供時代の1ページを描いた話で、当時の価値観と現在の価値観の差に驚きを覚えた作品の一つであるが、「若葉繁れる」とは直接的な関係はなさそうなのでここには踏み入らない。
# あらすじ
西園寺はウテナと無理やり決闘したため退学となっていた。しかし西園寺は退学後いくあてもなく、学園に戻り西園寺を慕う生徒の一人だった若葉の部屋に居候していた。お揃いのカップでコーヒーを一緒に飲んだり、談笑したりする姿が幸せそうに描写される。
遠く手の届かなかった西園寺といっしょに暮らせているという事実を噛み締め、この秘密さえあれば私は特別なんだという思いを抱きながら家路を急ぐ。秘密を抱きながら生きる若葉の姿がウテナ視点で描かれるが、その姿は以前よりもずっと生き生きとしておりウテナはその様子を「綺麗になった」と表現する。なぜ若葉は「綺麗になった」のか疑問に思ったウテナは暁生に尋ねるとこの世にはウテナのように特別な人と特別ではない人がいるが、特別ではない人でもきっかけさえあれば輝くのだと語る。
ある日、西園寺は若葉が昼ご飯代として手渡した五百円で彫刻刀を購入し、葉の形をした木彫りの髪飾りを作る。「君の真心へのお礼だよ」と言いながら作りかけの髪飾りを見せられた若葉はあまりの幸せに涙を落とす。
しかし西園寺のいない学園、生徒会のことを聞いた西園寺は姫宮アンシーについて尋ねる。西園寺との生活が終わればきっと西園寺は自分のことを思い出すことがないだろうと思い至る。そんな折、御影草時は西園寺に接触して学園への復帰を約束する変わりに手彫りの髪飾りをもらう。そして髪飾りをつけた姫宮の姿を若葉に見せる。
秘密も、木彫りの髪飾りも奪われた若葉は御影草時に指輪をもらい、西園寺に会いに行く。西園寺は学園に戻ること、木彫りの髪飾りは渡せなくなったこと、代わりに高い感謝の品を郵送で送るとを伝える。気持ちはすでに学園に向いており、若葉のことはあまり見えていないようである。若葉は西園寺から刀を奪う。
ウテナは決闘会場で若葉に出会う。驚きでディオスの剣を抜くことをためらっている間に若葉はウテナではなく真っ先にアンシーへ突っ込む。若葉は「お前もその女も生徒会の連中もみんな私を見下してるんだ。なんの苦労もなく持って生まれた力を誇ってな。だからお前たちはみんな平然と人を踏みつけにできるんだ」と叫ぶ。ウテナは刀を奪い素手で若葉に勝利する。
# 悲劇には最小の悪意を、最大の善意を
この話は結局持つ者が勝ち、持たざる者が敗北するバッドエンドだと思っているが、私は大好きである。こういったバッドエンドの話、あるいは単に悲劇と呼ばれるようなストーリーは良作と駄作が極端に分かれている気がしている。そのうち優れた作品は善意に溢れており、そうでない作品は登場人物たちを意図的に悪い方向へと向かわせる悪意で満ちているのではないか……と思っている。
この説はどこかで読んだ受け売りだったと思うのだが、どこで読んだのか覚えていない。アリストテレスの『詩学』か、『宝石の国』の批評に書かれていたような気がするが未確認である。
出所は不明だがこの主張の勘所は簡単である。悪意に満ちた「悪者」の存在によって主人公が悲劇のラストを迎えることは当然のことであり、そこになんの面白みもないからである。話の書き手が描きたい「悲しいラスト」があるならば、そうなるような「悪者」を作りさえすればよい。話の受けてはそういう「作者の意図」、すなわち設定の作為性を感じとってしまい面白さは半減する。一方登場人物たちが善意でやっていることが裏目に出てしまい、最終的に悲劇を迎えるというのは通常起こり得ないことであり、だからこそ特筆性があり面白みがある。
また悪者が主人公に害をなし、結局生きながらえるような最後は勧善懲悪的なストーリーとして見たときに第二幕で終わってしまうような中途半端な作りとなってしまう。話として完成させるにはエンディングが第三幕であると受け手が感じ取るだけのカタルシスが必要となる*1。一方悪役が登場しなければ勧善懲悪的なストーリーとして受け手がミスリードされることはないだろう。「悪役が罰を受ける」というような安直な続きを想像することもない。
具体例を出そう。映画『ミスト』はネタバレが激しいので多くは書かないが、典型例である。『宝石の国』(序盤)は主人公のフォスはみんなの力になろうと努力するのだが、それが却って悪い結果を生むことになる。『進撃の巨人』も登場人物たちはみんな良かれと思って動いているが、その方向性が異なるために悪い方向へと話が進んでいく(故に板挟みになったあのキャラが輝くのである)。『ごんぎつね』もこの型に当てはまる作品である。他方駄作と呼ばれるものをあまり思い出せないのだが、ちょうど昨日見たブラック・ミラーの『Beyond The Sea』は酷かった。登場人物の家族がいかにもな悪役に殺されるところから話がスタートしている。その他の設定も最後のオチを作るために逆算的に作られた設定ばかりである。オチは簡単に当てられない程度には練ってあるけどグロテスクなだけで面白みは感じない。もちろんそれらは私の主観であるが。
話を「若葉繁れる」へ戻そう。この作品には多くの善意が存在しているが、それが最も効果的に寄与しているのは西園寺からのプレゼントであろう。西園寺ははじめ手作りの髪飾りを用意していたが、これは黒薔薇会によって奪われてしまう(この話の唯一の悪意である)。その代わりに西園寺は「それなりに高価な品」を「郵送」で渡すと伝える。西園寺に悪気はなく、社会的には十分な金額のお返しをするだろう。だが若葉の気持ちを知っている視聴者にとってはこの上なく切なく、つらいセリフである。
その後若葉はウテナと決闘し、ウテナはディオスの剣を使うことなく勝利する。「助けてあげる」といって剣を振るうことなく勝利するウテナに落ち度はないが、改めて持つものと持たざるものの差をここで感じざるを得ない。ウテナは選ばれたものしか持つことのできない剣を持ちながら使わずに勝つ一方、若葉は自分の剣(世界を革命する力)を持っておらず、剣を西園寺から奪わなければ戦えない。さらに剣で戦っているにもかかわらず敗北する。ウテナは助けてあげたと思っているかもしれないが、結局ウテナは若葉の気持ちを微塵も理解していないだろう……。
# 締め
「若葉繁れる」の良さを考えるうえで今回は善意と悪意という観点から分析してみた。次回は持つ者と持たざる者という観点から話を分析してみたい。