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2025年3月25日火曜日

悲劇には最小の悪意を、最大の善意を/『少女革命ウテナ』20話「若葉繁れる」について考える①

 # 概要

『少女革命ウテナ』の「若葉繁れる」は私が最も好きな話の一つである。この話は幾原邦彦監督が描きたいテーマがよく現れていることが、『輪るピングドラム』の主人公たちの立場を見るとよく分かる。この話の類話を無限に読みたいのだがあまり見つけられていないので、ひとまずこの「若葉繁れる」、アニメ『美少女戦士セーラームーン』の23話、24話についてすこし時間をかけて考えることで気持ちを抑えたいと思う。初回はこの話のあらすじと、面白い悲劇は悪意は少ないほど、善意は多いほど面白いのだという主張をまとめる。

# サブタイトル「若葉繁れる」について

色々話す前にまずは解題をしておこう。タイトルの「若葉繁れる」はおそらく井上ひさしの『青葉繁れる』から来ていると思われる。『青葉繁れる』は井上ひさしの子供時代の1ページを描いた話で、当時の価値観と現在の価値観の差に驚きを覚えた作品の一つであるが、「若葉繁れる」とは直接的な関係はなさそうなのでここには踏み入らない。

# あらすじ

西園寺はウテナと無理やり決闘したため退学となっていた。しかし西園寺は退学後いくあてもなく、学園に戻り西園寺を慕う生徒の一人だった若葉の部屋に居候していた。お揃いのカップでコーヒーを一緒に飲んだり、談笑したりする姿が幸せそうに描写される。

遠く手の届かなかった西園寺といっしょに暮らせているという事実を噛み締め、この秘密さえあれば私は特別なんだという思いを抱きながら家路を急ぐ。秘密を抱きながら生きる若葉の姿がウテナ視点で描かれるが、その姿は以前よりもずっと生き生きとしておりウテナはその様子を「綺麗になった」と表現する。なぜ若葉は「綺麗になった」のか疑問に思ったウテナは暁生に尋ねるとこの世にはウテナのように特別な人と特別ではない人がいるが、特別ではない人でもきっかけさえあれば輝くのだと語る。

ある日、西園寺は若葉が昼ご飯代として手渡した五百円で彫刻刀を購入し、葉の形をした木彫りの髪飾りを作る。「君の真心へのお礼だよ」と言いながら作りかけの髪飾りを見せられた若葉はあまりの幸せに涙を落とす。

しかし西園寺のいない学園、生徒会のことを聞いた西園寺は姫宮アンシーについて尋ねる。西園寺との生活が終わればきっと西園寺は自分のことを思い出すことがないだろうと思い至る。そんな折、御影草時は西園寺に接触して学園への復帰を約束する変わりに手彫りの髪飾りをもらう。そして髪飾りをつけた姫宮の姿を若葉に見せる。

秘密も、木彫りの髪飾りも奪われた若葉は御影草時に指輪をもらい、西園寺に会いに行く。西園寺は学園に戻ること、木彫りの髪飾りは渡せなくなったこと、代わりに高い感謝の品を郵送で送るとを伝える。気持ちはすでに学園に向いており、若葉のことはあまり見えていないようである。若葉は西園寺から刀を奪う。

ウテナは決闘会場で若葉に出会う。驚きでディオスの剣を抜くことをためらっている間に若葉はウテナではなく真っ先にアンシーへ突っ込む。若葉は「お前もその女も生徒会の連中もみんな私を見下してるんだ。なんの苦労もなく持って生まれた力を誇ってな。だからお前たちはみんな平然と人を踏みつけにできるんだ」と叫ぶ。ウテナは刀を奪い素手で若葉に勝利する。

# 悲劇には最小の悪意を、最大の善意を

この話は結局持つ者が勝ち、持たざる者が敗北するバッドエンドだと思っているが、私は大好きである。こういったバッドエンドの話、あるいは単に悲劇と呼ばれるようなストーリーは良作と駄作が極端に分かれている気がしている。そのうち優れた作品は善意に溢れており、そうでない作品は登場人物たちを意図的に悪い方向へと向かわせる悪意で満ちているのではないか……と思っている。

この説はどこかで読んだ受け売りだったと思うのだが、どこで読んだのか覚えていない。アリストテレスの『詩学』か、『宝石の国』の批評に書かれていたような気がするが未確認である。

出所は不明だがこの主張の勘所は簡単である。悪意に満ちた「悪者」の存在によって主人公が悲劇のラストを迎えることは当然のことであり、そこになんの面白みもないからである。話の書き手が描きたい「悲しいラスト」があるならば、そうなるような「悪者」を作りさえすればよい。話の受けてはそういう「作者の意図」、すなわち設定の作為性を感じとってしまい面白さは半減する。一方登場人物たちが善意でやっていることが裏目に出てしまい、最終的に悲劇を迎えるというのは通常起こり得ないことであり、だからこそ特筆性があり面白みがある。

また悪者が主人公に害をなし、結局生きながらえるような最後は勧善懲悪的なストーリーとして見たときに第二幕で終わってしまうような中途半端な作りとなってしまう。話として完成させるにはエンディングが第三幕であると受け手が感じ取るだけのカタルシスが必要となる*1。一方悪役が登場しなければ勧善懲悪的なストーリーとして受け手がミスリードされることはないだろう。「悪役が罰を受ける」というような安直な続きを想像することもない。

具体例を出そう。映画『ミスト』はネタバレが激しいので多くは書かないが、典型例である。『宝石の国』(序盤)は主人公のフォスはみんなの力になろうと努力するのだが、それが却って悪い結果を生むことになる。『進撃の巨人』も登場人物たちはみんな良かれと思って動いているが、その方向性が異なるために悪い方向へと話が進んでいく(故に板挟みになったあのキャラが輝くのである)。『ごんぎつね』もこの型に当てはまる作品である。他方駄作と呼ばれるものをあまり思い出せないのだが、ちょうど昨日見たブラック・ミラーの『Beyond The Sea』は酷かった。登場人物の家族がいかにもな悪役に殺されるところから話がスタートしている。その他の設定も最後のオチを作るために逆算的に作られた設定ばかりである。オチは簡単に当てられない程度には練ってあるけどグロテスクなだけで面白みは感じない。もちろんそれらは私の主観であるが。

話を「若葉繁れる」へ戻そう。この作品には多くの善意が存在しているが、それが最も効果的に寄与しているのは西園寺からのプレゼントであろう。西園寺ははじめ手作りの髪飾りを用意していたが、これは黒薔薇会によって奪われてしまう(この話の唯一の悪意である)。その代わりに西園寺は「それなりに高価な品」を「郵送」で渡すと伝える。西園寺に悪気はなく、社会的には十分な金額のお返しをするだろう。だが若葉の気持ちを知っている視聴者にとってはこの上なく切なく、つらいセリフである。

その後若葉はウテナと決闘し、ウテナはディオスの剣を使うことなく勝利する。「助けてあげる」といって剣を振るうことなく勝利するウテナに落ち度はないが、改めて持つものと持たざるものの差をここで感じざるを得ない。ウテナは選ばれたものしか持つことのできない剣を持ちながら使わずに勝つ一方、若葉は自分の剣(世界を革命する力)を持っておらず、剣を西園寺から奪わなければ戦えない。さらに剣で戦っているにもかかわらず敗北する。ウテナは助けてあげたと思っているかもしれないが、結局ウテナは若葉の気持ちを微塵も理解していないだろう……。

# 締め

「若葉繁れる」の良さを考えるうえで今回は善意と悪意という観点から分析してみた。次回は持つ者と持たざる者という観点から話を分析してみたい。

# 参考

# 脚注

*1 悲劇ではないが『時計じかけのオレンジ』など

2025年3月19日水曜日

私が体験した「学校の怪談」

 # 概要

『学校の怪談: 口承文芸の展開と諸相』という本を読んでいる。教師という立場であった著者は身近な民間伝承ととれる学校の怪談を収集し、それを分析することを試みている。直接子どもたちから聞き取っているため話の生々しさが感じられ面白いのだが、そういえば自分もいくつか学校の怪談、あるいは身近なところでまことしやかに語られた怪談というものがあったことをいくつか思い出したので書こうと思う。もっとも、当時の記憶を忘れないために書くので怪談とは関係ない当時の描写を多めに記す。

# プレハブ校舎の花子さん

私のいた小学校は、いわゆる小学校然としたコンクリート製の白い直方体の小学校だった。当時(2003年ぐらい)の私にとってはだいぶ古い建物に感じられていて、ジメジメとした北側の廊下や階段にはトイレのような、なんとなくいたくない雰囲気が漂っていた。教室の廊下側の窓は木枠の古い昭和の窓で、鍵は木枠の重なる場所に開けられた穴に金属製のかんぬきを差し込む形式だった。とはいえそれは当時の私にとっての感覚であって、今思い出す限りでは築30年ぐらいで、そこまで古い建物ではなかったように思う。

しかし今の築30年と当時の築30年では建物の頑丈さは全く違うものだったのだろう。小学2年生の頃に授業参観かなにかで土曜日に保護者とともに登校した。午前中で授業が終わり、児童が全員帰ったあとに屋上部分のコンクリートが崩れ落ちた。北側の部分が落ちたらしく瓦礫などを見た記憶はないのだが、これをうけて急遽校舎の一部を建て替えることになった。

校舎は3つの校舎が一直線につながっているような構造になっていたのだが、中央部分の校舎だけが建て替えとなった。そのためあれよあれよという間に渡り廊下がグラウンドに作られ中央の校舎を通らずに両端の校舎へ移動できるようになり、また足りない教室を補うために体育館の南側にプレハブ校舎が建てられた。プレハブ校舎は教室が3、4室とトイレがあるだけの平屋で、校舎よりもずっときれいな建物だった。だがしばらくしてトイレの花子さんが出るという噂が立つようになったのは汚い校舎のトイレではなく、このプレハブ校舎のトイレだった。

プレハブ校舎に現れた花子さんは、女子トイレの奥から何番目の個室を何十回か叩いたうえで「は~な~こさん」と呼びかけると「は~あ~い」と返事をするという他愛のない、典型的なものであった。私は一度だけその花子さんを呼び出している姿を見たことがある。十人ぐらいの女子児童が集まって個室を叩きながら「きゅう、じゅう、じゅういち……」と数字を数え、「は~な~こさん」と声を掛けると「は~あ~い」という弱々しい声が、しかしはっきりと聞こえてきた。どこから聞こえてくるのか判然としないその声に、当時は本物かもしれないと思ったものだが、そこにいた女子児童の何名かが同時に声を出していたことが声に不思議な印象を与えていただけであろう。

花子さんの召喚は女子しかできないため当時の自分は歯がゆく思ったのをよく覚えている。あるいはまたそういう話が女子トイレにだけあることが羨ましくも感じられたため、私は何か出そうな薄暗い男子トイレに「花男さんがでる」と言ってクラスメイトを何名か連れてきて自分で考えた召喚方法を試して「は~あ~い」と呟くのをやっていたがこれはあまり流行らなかった。プレハブのトイレは南に面していた(廊下が北で、教室やトイレはすべて南側だった)のでかなり明るく、幽霊なんかがでなさそうな雰囲気だったのが逆に良かったのかもしれない。

# 夜中の神社の祟り

今度は打って変わって私が高校生の頃、2014年ごろの話である。ある日学年でわりと目立つ生徒の一人が学校を休んだ。聞けば事故にあったという。後日腕を骨折した姿でその生徒は登校してきた。どうも免許取り立ての先輩らを含めて合計4人(ぐらい)で車に乗ってドライブしていたところ事故にあったらしい。一緒に車に乗っていた先輩はもっとひどいという話だった。

しかしその生徒と親しい生徒が声を低くして噂するには、事故の直前に4人は夜中に神社に寄っていたという。先輩らは面白半分で神社に乗り込んでいき、腕を骨折した生徒は怖気づいたのか一番最後に神社に入っていたらしい。実はその神社に乗り込んだ順番が怪我の程度とおなじになっているというのである。すなわち無礼な先輩は一番重い罰を与えられ、逆に先輩にいわれていやいや入っていった生徒は一番軽い罰を与えられたというのである。

この話はこれ以上語られることはなかったが、神社も我々がよく知る町で何番目かに大きい神社で、木々で囲まれた暗い、どこか厳かな雰囲気のある神社だったため真実だと思わせるような迫力があった。思えばその神社の前を通ると背筋がゾクッとするとか、そういう噂があったような気もする。

# その他

いくつか思い出した話を箇条書きで綴っておく

  • 山の近くの墓地には幽霊が出るので、走って前を通った方が良いという話が小学生の間であった
  • 母親の幼馴染には多少霊感の類があるらしく、嫌なものを感じるため家の中で見ないと決めている場所があるという。
  • 私の母親は私が反抗期で感情的になることが多かったころ、勝手口が丑寅の方角、鬼門に面しているからではないかと思ったという
  • 私の実家の前にある家は長く空き家で、幽霊屋敷として家の近くで囁かれていたという。人がいないはずなのに2階のカーテンが動いたとか、女性がいたという話があったという。