『東海道中膝栗毛』を読んでから、ずっと東海道を歩いてみたいと思っていたのですが、先日名古屋(伝馬町一里塚)から豊橋(下地一里塚)まで2日間かけて歩きました。せっかくなので東海道各地の風景写真を紹介しつつ、東海道を歩く楽しみというものを紹介したいと思います。なお本稿に掲載されている写真は2024年5月に撮影したものです。
1. 目的
今回の旅の目的は江戸時代の人の旅を追体験しながら下宿先(名古屋)から地元(豊橋ではないが豊橋周辺)まで歩くことにしましたす。当時の旅といえばお伊勢参りという伊勢神宮への参詣がもっともポピュラーなものだったでしょう。『東海道中膝栗毛』も東京(江戸)に住む主人公二人が東海道を歩いてお伊勢参りする話になっています。ですから当時の人があるいた東海道を自分も歩いてみることで、どんな感じだったのかというものを考えながら歩いてみます。
2. 歩行距離
では実際に1日にどのぐらい歩くかについてですが、今回は30kmとしました。この数字には2つ理由があります。ひとつは前回の失敗の経験から決めたものです。実は私、2018年に歩いて実家に帰ることを試みたことがあります。その際にはあまり事前調査することなく歩き出したので、荷物が重く、道もわからず、結局途中で諦めてしましました。7時間半で37km歩いて安城市で一泊し、電車で家に帰りました。その経験から30km以上歩くのは困難だろうと思い、この数字としました。
もう一つは江戸時代の人も一日に30km前後歩いていたという情報を耳にしたためです。インターネットで調べたところ、当時の日記を調査した結果などから出てきた数字のようです[1][2]。江戸時代の人の旅を追体験することが目的ですので、この数字を採用しました。
以上2つの理由から一日に30km歩くこととしました。また名古屋~豊橋間はちょうど60kmであったため、その中間の岡崎市でホテルに宿泊することとなりました。
3. 準備
前回歩いた経験から①歩道のある安全な道を選ぶこと、②歩いている間の暇つぶしが要ること、③荷物の軽量化の3つが解決すべき問題になることがわかっています。それらの対策を今回はあらかじめ行いました。
①歩道のある安全な道を選ぶこと
国道1号線は東海道に沿って作られています。国道が横にあるため車通りは少なく、また国道によって潰されている区間は国道の歩道を歩けば問題ありません。したがって今回は東海道をきちんと歩けば問題ないことがわかりました。
Google Mapで東海道を探すのを容易にするために、かつて東海道沿いに作られていた一里塚をGoogle Mapに登録しておきました。一里塚についたら次の一里塚への経路を表示させれば、概ね東海道沿いに経路が示されるので、旅がかなり楽になりました。なお一里塚や宿場跡の情報は「東海道を歩く - 旧街道ウォーキング - 人力」というサイトを参考にしました[3]。
②歩いている間の暇つぶし
「石を投げれば遺跡に当たる」と言っていいほど東海道沿いには歴史ある場所が並んでいます。そのため一里塚や看板などを探しながら歩けばそこまで苦にはなりません。また私が歩いたのは5月だったため、道端に咲く花を見ながら歩くこともちょうどいい娯楽でした。しかし、国道によって東海道が潰されている区間はかなり暇でした。私はAmazonのaudibleという本の読み上げサービスに契約し、落語や興味がある本をあらかじめダウンロードして置くことでこの問題を解決しました。
③荷物の軽量化
前回歩いたのは12月だったのですが、着替えや本、携帯端末など多くの荷物を持ちながら歩いたためかなり辛いものでした。今回は5月という歩きやすい季節を選んだため、着替えもあまりかさばらずに済みました。
その他、杖を購入することも検討しました。歩いた経験から言えば、買っておけばよかったかなと思っています。
4. 各地の写真
4.1 伝馬町一里塚
出発地点として選んだのが伝馬町一里塚ですが、石碑などはなく、看板が立っているだけでした。看板には読みにくくなっていましたが地図が書かれており、この看板の裏が一里塚跡だったと説明されているようです(まだ読める時に撮影された写真がサイト[4]に掲載されています)。
サイト[4]にはここが一里塚のあった場所ではない可能性があると書かれています。出典が明記されていなかったので細かく調べられてはいないのですが、熱田区の古地図である『蓬左文庫所蔵古地図複製No.10 熱田 尾張志付図』を見る限りでは築出鳥居があったのがこのあたりで、一里塚はもう少し東側に描かれているように見えます(調べた結果は後日別の記事にするつもりです)。
なお余談ですが、ここの通りを西に真っ直ぐ行くとGoogle Mapで「旧東海道 道標・上知我麻神社跡」と書かれている道標があり、ここが東海道であったことに間違いはなさそうです(道標周辺の1987年ごろの地図は文献[5]にかかれています)。
伝馬町一里塚跡とされる場所
伝馬町一里塚にあった看板の写真
4.2 笠寺一里塚
伝馬町~笠寺にかけてはお寺なども多く、歴史的な場所がきちんと保たれているようでした。笠寺一里塚はまだ塚らしいこんもりとした小山が残っており、大きな木が植えられていました。
笠寺一里塚
4.3 鳴海、有松一里塚、有松
笠寺一里塚~有松にかけては歩いていてかなり楽しい区間でした。道路に描かれた絵にも東海道の絵が書かれたりしており、東海道なのだという意識がきちんと残っているようです。この区間だけでももう一度歩いてみてもいいかなと思えた場所です。
まず鳴海城跡です。ごく普通の公園となっていましたが、堀の跡などが近くに残っていました。
鳴海城跡。現在は公園になっている。
鳴海城跡には「信長攻略」という新しい看板が立っていました。どうやら名古屋市が信長ゆかりの地にこういった看板を作っているようです[6]。東海道を歩いていると遺跡等は地域によって保存率は大きく異なっており、こういった市の制作などによって新しく看板などを立てたり、保存していかなければ失われるものなのだということを感じます。
信長攻略 鳴海城跡公園
次に鳴海宿高札場です。鳴海城跡のすぐ近くにありました。2009年11月に復元された比較的新しいもののようです。高札場は今回の旅では3箇所ほど見たと記憶しています。
鳴海宿高札場(復元)
鳴海宿高札場に掲げられた看板
名古屋市内でお金があるのか、常夜灯やお寺などにも名古屋市教育委員会が設置した看板があちこちにありました。
そして有松一里塚です。きれいにされており、きちんと保存されているようです。
有松一里塚
有松一里塚の説明
ここからは「名古屋市有松伝統的建造物群保存地区」に入ります。ここからしばらくは当時の町並みが保存されている地区で、木造家屋や建物の説明が書かれた看板が多く立てられていました。ここにいちいち来る人はあまり多くないでしょうが、東海道を歩いている人にとってはちょうどいい娯楽となっており、非常に楽しく歩けるエリアでした。
有松地区の様子
この地域がかつての町並みを保存する地区であることを説明する看板
山車を保管する施設
4.4 阿野一里塚
一里塚は道路の両サイドに塚が作られたそうですが、ここは両方とも残っている貴重な一里塚のようです。このあたりに来ると流石に脚がじんわりと痛くなってきました。このあたりを歩いているときには東海道沿いをゆっくり自転車で走りながら花の写真をとっている人がいて、同じように東海道を歩いているのだろうかと思いながら歩いていました。
阿野一里塚をパノラマ撮影したもの。
阿野一里塚に掲げられていた看板
阿野一里塚におかれていた句碑
句碑の説明
なお阿野一里塚~一ツ木 一里塚の区間は最も歩いていてつまらない区間でした。工場が多く、トラックもたくさん走っていたので少々ストレスフルな区間でした。もっとも、東海道から少しずれて国道を歩いていたのは大きな要因で、このあたりには十王堂などもある(あった?)らしいことが一ツ木一里塚の看板に書かれていました。次回この区間を歩くときには東海道や、一本外れた道を歩いたほうが良さそうです。
4.5 一ツ木一里塚
写真左に見えるのがおそらく一里塚の名残りです。歩道橋の下に小さな看板がおかれており、そこにこの周辺の地図と説明が書かれていました。
一ツ木一里塚の様子
一里塚にあった説明文
4.6 池鯉鮒宿、来迎寺一里塚
池鯉鮒宿~来迎寺一里塚あたりは民家も多く、季節の花が道端に咲いていて歩いていて楽しい区間でした。これといって目立った史跡などがあったわけではないのですが、道端の花の写真を多く撮影しながら歩いていました。
「知立」は読みにくい地名だと思っていましたが、昔は池鯉鮒と書いたようです。
道路沿いにおかれていた花々。いい匂いがして思わず撮影してしまった。
そして来迎寺一里塚につきます。来迎寺一里塚は私が訪れた一里塚の中では最も保存状態が良さそうで、道の両脇の塚が残っていました。立派な石碑や看板が掲げられているほか、少し休める場所もあったので大変心地よい場所でした。
来迎寺一里塚の写真
来迎寺一里塚におかれていた石碑(表面)
来迎寺一里塚におかれていた石碑(裏面)
来迎寺一里塚におかれていた看板
来迎寺一里塚周辺の遺跡を示した看板
暫くそこから歩くと、看板に書かれていた松並木が見えてきます。東海道沿いには松がよく植えられていたのか、旅の途中に松並木は各地で見ることができました。ここもそうですが、松並木が残っているエリアでは地元の小学生が卒業記念に新しく松の木を植えているようです。子どもたちが植えることで「自分たちの松」という意識が生まれ、将来的にも松の木が守られることを図っているようでいいやり方だなと思いました。
松並木
松に関連して、ここから東に更に行くと永安寺というお寺につきます。ここの松は最も印象深く残っている松です。1.5 mの高さで上に育つのではなく、横に育つという珍しい形に成長したようです。お寺のゆかりも非常に心を打つものがあり、徳のあるお寺だからこそそういった松が生まれたのではないかと感じてしまうものでした。
永安寺の雲竜の松
永安寺および雲竜の松の説明
4.7 尾崎一里塚
石碑が残るのみだったが、この周辺は海軍航空隊の練兵場などがあったらしく、それについての看板や石碑が多く立っていた。わずか80年前のことでさえあっという間に風化してしまい、看板を立てているのだから、いわんや一里塚をやと言ったところだろう。
尾崎一里塚碑
英霊招魂碑
予科練之碑
元第一岡崎海軍航空隊配置図
4.8 矢作一里塚
Google Mapに従ってやってきたのだが、現地には看板も石碑もなにもない。もしかしてGoogle Mapが間違っているのではないかと思い調査したが、『岡崎 : 史跡と文化財めぐり』に「塚の築かれた地点としては(中略)矢作(矢作町宝珠庵)にあった」とあり、このあたりの地名が宝珠庵であるらしいことからこの辺りで間違いはなさそうである[7]。とはいえここまで何も無いのはこの度では矢作一里塚のみであり、なにか看板でも置いて欲しいなぁと思うばかりである。
矢作一里塚があったとされる場所の周辺の様子
矢作一里塚があったとされる場所の周辺の様子
4.9 岡崎宿
今回の旅程では30km地点である岡崎市で宿泊することにし、あらかじめホテルを予約しておいた。ホテルにつくと急に足が痛みだし、足湯などをやってみたがあまり効果は感じられなかった。
岡崎城周辺の様子。急に雨が降り出して困った。
岡崎市は割と東海道に関する場所の石碑や看板がおかれていた。やはり大きい都市はそういったことをやるだけの金銭的余裕があるのだろう。
おそらく宿場の入口の門を再現したもの。
岡崎城下二十七曲りの説明
4.10 大平一里塚
二日目に入って最初の一里塚である。足の痛みはかなりのものだが、歩いていると次第に痛みが和らいでいくのだから不思議である。ここの一里塚は
比較的保存状態の良い一里塚だった。参考文献[7]に素描があるが、それとほとんど変わりがない。
大平一里塚
大平一里塚から藤川までの道のりはかなり歩いていて心地よいものだった。大きな川(乙川)を超えるところは心地良い風が体の中を吹き抜けて、なんでもないはずの風景が美しく感じられた。
岡崎宿周辺について記載した看板
乙川。ものすごく美しく感じたのだが、写真でみるとそうでもない。不思議なものである。
4.11 藤川、藤川一里塚
藤川は松並木や、十王堂など多くの史跡が残っている場所で、歩いていて楽しい場所だった。見渡す限りの田と山といった様子で、こういう場所でひなたぼっこしたいなと思うばかりであった。ここでも地元の小学生が松を植樹していた。
藤川の松並木
十王堂
藤川宿の一里塚は残っていないようで、看板のみがあった
藤川宿の史跡などを示した看板
本陣跡。高札場跡は別の場所だったが、再現されたものはここに設置されていた。
藤川から少し移動した場所にある水田。本当に心地よかった。
4.12 本宿一里塚跡
本宿の一里塚は石碑が残るのみだった。とはいえこの周辺にはぼちぼち史跡があったようだがあまり発見できなかった。少し道を間違えていたのかもしれない。
本宿の一里塚跡
本宿の一十王堂。公民館のような外見だが、扉の隙間から十王像を見られる。
本宿の史跡などを示した看板
本宿旧代官屋敷にあった石垣。作り方が独特だったため撮影した。
天皇と家康は休むだけで史跡になるのだからすごいものである。
史跡の説明
本宿の入口
この地域はルネッサンス事業委員会というところが看板などを設置していたらしい。
ここからしばらくは国道沿いに歩くことになり、史跡などには巡り会えなくなる。
4.13 長沢、長沢一里塚跡
長沢では川が近くを流れており、きれいな水田が広がる場所だった。水面下には多くのオタマジャクシが確認できた。
長沢の水田
長沢城跡の説明が書かれた看板
長沢一里塚跡
一里塚跡上部にはこの場所を描いた東海道分間延絵図が掲載されていた
4.14 赤坂、御油一里塚跡
赤坂はかなり多くの史跡や看板があった。
赤坂の史跡を記した看板
大橋屋(旧旅籠鯉屋)と脇本陣(輪違屋)についての看板
赤坂代官所(陣屋)跡についての看板
大橋屋(旧旅籠鯉屋)の間取りについての看板
赤坂宿のまつりについての看板
高札場周辺の様子
御油は松並木が多く残っていた。公園のような場所と隣接しており、いい雰囲気の場所であった。時間ギリギリで歩いているため長居はしなかったが、もうすこしゆったりここを楽しみたかったところである。
御油の松並木
「弥次郎兵衛、喜多八もあるいた 御油の松並木」と書かれた看板。残念ながら文字がかすれてしまっている。
御油一里塚跡
大社神社の近くに立てられた石碑に「戦死者 玉島好彦のために 子を思ふ 親の心の悲しさよ 孫なき吾子の 名をば止めん 常治」と書かれていた。和歌や古文に疎いものの、子供を作ることもないまま亡くなった自分の子供の名前だけでもとどめておきたいという親の気持ちが伝わってくる。戦時には名前を残すことなく亡くなってしまった人が多くいたのだということを思い知らされる。
大社神社の近くに立てられた石碑
このあたりは明治天皇が通ったようで、史跡がしばしば残っていた。天皇と家康は休むだけで史跡になる(n回目)
明治天皇が休憩したことを示した看板
4.15 伊ノ奈一里塚跡
正直このあたりは発展していること、豊橋という見知った町ということ、更に疲れがかさんでいることから、あまり写真などを撮っていませんでした。
伊ノ奈一里塚跡
伊奈村立場茶屋の看板。明治天皇が使った箸が残っているというのはなかなか奇妙な話である。
4.16 下地一里塚跡
私の旅における最後の一里塚でした。本当は江戸時代からあったとされる豊橋(とよばし)なんぞを見て感慨にふけりたかったのですが、駅に行って実家へと電車で向かったのでした。
下地一里塚
5.まとめ
今回の旅は個人的にはかなり楽しいものでした。以下が今回の反省点と知見です。
- 現在「大きい道」といえば4車線~6車線程度の広い道を想像するが、車が走っていない江戸時代にできた東海道は、一里塚を見る限りそこまで広くはなかったことが実感できた
- 一里塚かかなり正確で、ほぼ1時間に1回目にすることになった。こういったマイルストーン(マイルストーンは一里塚である)があったおかげで、いい刺激を得ながら飽きずに歩けた
- 東海道は歴史ある道であるため、要所要所に史跡があり、これもまた良い刺激であった
- 足は限界を超えると歩いていたほうが痛くなくなる。宿に泊まったときや、2日目の朝などはかなり痛くて困ったのだが、歩いてみるとあまり痛みを感じなくなった。
- 今回は江戸時代の人に倣い、1日30km、2日で60kmを歩いた。私は20代で運動不足というほどではないのだが足はかなり痛くなった。正直一週間連続で歩くのは不可能だと感じた。なお江戸時代の頃はいくつかの川には橋がかかっておらず、川の増水で足止めを食らったり、あるいは七里の渡しという船旅をする経路があったりと、歩かない時間がそれなりにあったので負担が軽減されていたのかなと思った。当時のお伊勢参りの日記を確認すればわかるのだろうが、未確認である。
- 家に帰ってから確認したところ、直径1.5cm程度のマメが足にできていた。
- 1日目は47,046歩、2日目は49,261歩であった(下図参照)
- 史跡が多く、飽きることはなかったものの、歩いているがゆえに時間が気になり、十分に史跡を堪能できないことも多かった。もしもう一度同じ道のりを行く場合は自転車に乗りながら今回と同じように2日かけて移動するのが良いと感じた。
1日目の万歩計の記録
2日目の万歩計の記録
6. 参考文献