1. 目的
今回の旅の目的は江戸時代の人の旅を追体験しながら下宿先(名古屋)から地元(豊橋ではないが豊橋周辺)まで歩くことにしましたす。当時の旅といえばお伊勢参りという伊勢神宮への参詣がもっともポピュラーなものだったでしょう。『東海道中膝栗毛』も東京(江戸)に住む主人公二人が東海道を歩いてお伊勢参りする話になっています。ですから当時の人があるいた東海道を自分も歩いてみることで、どんな感じだったのかというものを考えながら歩いてみます。
2. 歩行距離
では実際に1日にどのぐらい歩くかについてですが、今回は30kmとしました。この数字には2つ理由があります。ひとつは前回の失敗の経験から決めたものです。実は私、2018年に歩いて実家に帰ることを試みたことがあります。その際にはあまり事前調査することなく歩き出したので、荷物が重く、道もわからず、結局途中で諦めてしましました。7時間半で37km歩いて安城市で一泊し、電車で家に帰りました。その経験から30km以上歩くのは困難だろうと思い、この数字としました。
もう一つは江戸時代の人も一日に30km前後歩いていたという情報を耳にしたためです。インターネットで調べたところ、当時の日記を調査した結果などから出てきた数字のようです[1][2]。江戸時代の人の旅を追体験することが目的ですので、この数字を採用しました。
以上2つの理由から一日に30km歩くこととしました。また名古屋~豊橋間はちょうど60kmであったため、その中間の岡崎市でホテルに宿泊することとなりました。
3. 準備
前回歩いた経験から①歩道のある安全な道を選ぶこと、②歩いている間の暇つぶしが要ること、③荷物の軽量化の3つが解決すべき問題になることがわかっています。それらの対策を今回はあらかじめ行いました。
①歩道のある安全な道を選ぶこと
国道1号線は東海道に沿って作られています。国道が横にあるため車通りは少なく、また国道によって潰されている区間は国道の歩道を歩けば問題ありません。したがって今回は東海道をきちんと歩けば問題ないことがわかりました。
Google Mapで東海道を探すのを容易にするために、かつて東海道沿いに作られていた一里塚をGoogle Mapに登録しておきました。一里塚についたら次の一里塚への経路を表示させれば、概ね東海道沿いに経路が示されるので、旅がかなり楽になりました。なお一里塚や宿場跡の情報は「東海道を歩く - 旧街道ウォーキング - 人力」というサイトを参考にしました[3]。
「石を投げれば遺跡に当たる」と言っていいほど東海道沿いには歴史ある場所が並んでいます。そのため一里塚や看板などを探しながら歩けばそこまで苦にはなりません。また私が歩いたのは5月だったため、道端に咲く花を見ながら歩くこともちょうどいい娯楽でした。しかし、国道によって東海道が潰されている区間はかなり暇でした。私はAmazonのaudibleという本の読み上げサービスに契約し、落語や興味がある本をあらかじめダウンロードして置くことでこの問題を解決しました。
③荷物の軽量化
前回歩いたのは12月だったのですが、着替えや本、携帯端末など多くの荷物を持ちながら歩いたためかなり辛いものでした。今回は5月という歩きやすい季節を選んだため、着替えもあまりかさばらずに済みました。
その他、杖を購入することも検討しました。歩いた経験から言えば、買っておけばよかったかなと思っています。
4. 各地の写真
4.1 伝馬町一里塚
出発地点として選んだのが伝馬町一里塚ですが、石碑などはなく、看板が立っているだけでした。看板には読みにくくなっていましたが地図が書かれており、この看板の裏が一里塚跡だったと説明されているようです(まだ読める時に撮影された写真がサイト[4]に掲載されています)。サイト[4]にはここが一里塚のあった場所ではない可能性があると書かれています。出典が明記されていなかったので細かく調べられてはいないのですが、熱田区の古地図である『蓬左文庫所蔵古地図複製No.10 熱田 尾張志付図』を見る限りでは築出鳥居があったのがこのあたりで、一里塚はもう少し東側に描かれているように見えます(調べた結果は後日別の記事にするつもりです)。
なお余談ですが、ここの通りを西に真っ直ぐ行くとGoogle Mapで「旧東海道 道標・上知我麻神社跡」と書かれている道標があり、ここが東海道であったことに間違いはなさそうです(道標周辺の1987年ごろの地図は文献[5]にかかれています)。
4.2 笠寺一里塚
伝馬町~笠寺にかけてはお寺なども多く、歴史的な場所がきちんと保たれているようでした。笠寺一里塚はまだ塚らしいこんもりとした小山が残っており、大きな木が植えられていました。4.3 鳴海、有松一里塚、有松
笠寺一里塚~有松にかけては歩いていてかなり楽しい区間でした。道路に描かれた絵にも東海道の絵が書かれたりしており、東海道なのだという意識がきちんと残っているようです。この区間だけでももう一度歩いてみてもいいかなと思えた場所です。そして有松一里塚です。きれいにされており、きちんと保存されているようです。
ここからは「名古屋市有松伝統的建造物群保存地区」に入ります。ここからしばらくは当時の町並みが保存されている地区で、木造家屋や建物の説明が書かれた看板が多く立てられていました。ここにいちいち来る人はあまり多くないでしょうが、東海道を歩いている人にとってはちょうどいい娯楽となっており、非常に楽しく歩けるエリアでした。
なお阿野一里塚~一ツ木 一里塚の区間は最も歩いていてつまらない区間でした。工場が多く、トラックもたくさん走っていたので少々ストレスフルな区間でした。もっとも、東海道から少しずれて国道を歩いていたのは大きな要因で、このあたりには十王堂などもある(あった?)らしいことが一ツ木一里塚の看板に書かれていました。次回この区間を歩くときには東海道や、一本外れた道を歩いたほうが良さそうです。
4.5 一ツ木一里塚
写真左に見えるのがおそらく一里塚の名残りです。歩道橋の下に小さな看板がおかれており、そこにこの周辺の地図と説明が書かれていました。4.6 池鯉鮒宿、来迎寺一里塚
池鯉鮒宿~来迎寺一里塚あたりは民家も多く、季節の花が道端に咲いていて歩いていて楽しい区間でした。これといって目立った史跡などがあったわけではないのですが、道端の花の写真を多く撮影しながら歩いていました。暫くそこから歩くと、看板に書かれていた松並木が見えてきます。東海道沿いには松がよく植えられていたのか、旅の途中に松並木は各地で見ることができました。ここもそうですが、松並木が残っているエリアでは地元の小学生が卒業記念に新しく松の木を植えているようです。子どもたちが植えることで「自分たちの松」という意識が生まれ、将来的にも松の木が守られることを図っているようでいいやり方だなと思いました。
4.8 矢作一里塚
4.9 岡崎宿
今回の旅程では30km地点である岡崎市で宿泊することにし、あらかじめホテルを予約しておいた。ホテルにつくと急に足が痛みだし、足湯などをやってみたがあまり効果は感じられなかった。岡崎市は割と東海道に関する場所の石碑や看板がおかれていた。やはり大きい都市はそういったことをやるだけの金銭的余裕があるのだろう。
4.10 大平一里塚
二日目に入って最初の一里塚である。足の痛みはかなりのものだが、歩いていると次第に痛みが和らいでいくのだから不思議である。ここの一里塚は比較的保存状態の良い一里塚だった。参考文献[7]に素描があるが、それとほとんど変わりがない。
4.11 藤川、藤川一里塚
4.12 本宿一里塚跡
本宿の一里塚は石碑が残るのみだった。とはいえこの周辺にはぼちぼち史跡があったようだがあまり発見できなかった。少し道を間違えていたのかもしれない。ここからしばらくは国道沿いに歩くことになり、史跡などには巡り会えなくなる。
4.13 長沢、長沢一里塚跡
長沢では川が近くを流れており、きれいな水田が広がる場所だった。水面下には多くのオタマジャクシが確認できた。4.14 赤坂、御油一里塚跡
赤坂はかなり多くの史跡や看板があった。御油は松並木が多く残っていた。公園のような場所と隣接しており、いい雰囲気の場所であった。時間ギリギリで歩いているため長居はしなかったが、もうすこしゆったりここを楽しみたかったところである。
4.15 伊ノ奈一里塚跡
正直このあたりは発展していること、豊橋という見知った町ということ、更に疲れがかさんでいることから、あまり写真などを撮っていませんでした。4.16 下地一里塚跡
私の旅における最後の一里塚でした。本当は江戸時代からあったとされる豊橋(とよばし)なんぞを見て感慨にふけりたかったのですが、駅に行って実家へと電車で向かったのでした。5.まとめ
今回の旅は個人的にはかなり楽しいものでした。以下が今回の反省点と知見です。- 現在「大きい道」といえば4車線~6車線程度の広い道を想像するが、車が走っていない江戸時代にできた東海道は、一里塚を見る限りそこまで広くはなかったことが実感できた
- 一里塚かかなり正確で、ほぼ1時間に1回目にすることになった。こういったマイルストーン(マイルストーンは一里塚である)があったおかげで、いい刺激を得ながら飽きずに歩けた
- 東海道は歴史ある道であるため、要所要所に史跡があり、これもまた良い刺激であった
- 足は限界を超えると歩いていたほうが痛くなくなる。宿に泊まったときや、2日目の朝などはかなり痛くて困ったのだが、歩いてみるとあまり痛みを感じなくなった。
- 今回は江戸時代の人に倣い、1日30km、2日で60kmを歩いた。私は20代で運動不足というほどではないのだが足はかなり痛くなった。正直一週間連続で歩くのは不可能だと感じた。なお江戸時代の頃はいくつかの川には橋がかかっておらず、川の増水で足止めを食らったり、あるいは七里の渡しという船旅をする経路があったりと、歩かない時間がそれなりにあったので負担が軽減されていたのかなと思った。当時のお伊勢参りの日記を確認すればわかるのだろうが、未確認である。
- 家に帰ってから確認したところ、直径1.5cm程度のマメが足にできていた。
- 1日目は47,046歩、2日目は49,261歩であった(下図参照)
- 史跡が多く、飽きることはなかったものの、歩いているがゆえに時間が気になり、十分に史跡を堪能できないことも多かった。もしもう一度同じ道のりを行く場合は自転車に乗りながら今回と同じように2日かけて移動するのが良いと感じた。
6. 参考文献
[1] 江戸時代に旅行した人は1日に何キロくらい歩いたのか。平均、一般的な数値でよいので知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000139827&page=ref_view
[2] 【第16回】みちびと紀行 東海道を往く~シーズン1を終えて | 特定非営利活動法人新日本歩く道紀行推進機構 https://michi100sen.jp/specialty/michibito/016.html
[3] 東海道を歩く - 旧街道ウォーキング - 人力 https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/
[4] 東海道:伝馬町一里塚 http://hat.la.coocan.jp/data/tokaido/tokaido089.htm
[5] 稲神和子 著『大和路・いせ路道標の旅 2版』1987年 P197 https://dl.ndl.go.jp/pid/9576354/1/102
[6] 【信長攻路】桶狭間の戦い 人生大逆転街道 |愛知名古屋の歴史にちなんだおすすめコースや観光スポットをご紹介 https://nobunaga-kouro.nagoya/
[7] 岡崎の文化財編集委員会 編『岡崎 : 史跡と文化財めぐり』 https://dl.ndl.go.jp/pid/9539743/1/39
[8] 八幡義生『東海道 : 安藤広重の『東海道五十三次』と古道と宿駅の変遷 (歴史と風土 ; 10)』 https://dl.ndl.go.jp/pid/9568791/1/131
[9] 秋好善太郎 編『東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照』z』 https://dl.ndl.go.jp/pid/966629/1/90
[10] 尾崎士郎 編『東海道歴史散歩 (河出新書)』 https://dl.ndl.go.jp/pid/2978269/1/68
[11] 森川昭 監修『東海道五十三次の事典 (サン・レキシカ ; 36) 』 https://dl.ndl.go.jp/pid/9571629/1/85
[12] 日本の美社『東海道五十三次宿場の旅』 https://dl.ndl.go.jp/pid/9569692/1/42
[13] 関西道路研究会『東海道道路調査報告書 昭和9年11月』 https://dl.ndl.go.jp/pid/1235010/1/23
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