2026年1月5日月曜日

2026年最初の投稿

 年が明けたので1年間の振り返りをしつつ今年の目標を決める。

# 概観

社会の変化は大きかったが、自分自身の変化はあまり大きくなかった。引っ越しと婚約指輪の購入は大きかった。

# 活動履歴

  • 1月……PCのSSD・HDDを新調。確かo3-proが出た頃だったので写真の位置を特定させたりしてた。
  • 2月……特に何もしてなさそう
  • 3月……gemini2.0 flashのocr性能に驚いてた記憶がある。『学校の怪談: 口承文芸の展開と諸相』を読んでて楽しかった記憶。2025年で一番色々やってたかもしれない。ウテナの若葉茂れるの話について考察してたりしてた。
  • 4月……茸本朗の本を買ったのがこのあたりか、カラスノエンドウを取って食ってみたりしてた記憶
  • 5月……特になし
  • 6月……ただの風邪を2周間ぐらいこじらせた。
  • 7月……選挙があった。たしかトランプの選挙とかもちょっと前にあって、色々思うところがあったと記憶している。いままで政治に参加するというのは選挙に行くことだと思ってたけど、インターネッツ工作員をすることもデモ活動をすることも政治活動であって、おそらく今はインターネッツ工作員をするほうが選挙へ行くことよりも大事なんだろうなと思った。
  • 8月……wplaceをやってた。楽しいインターネットの世界(だったが、荒らしの登場により萎えてしまった記憶)。谷崎潤一郎の痴人の愛を読んだが、彼女ができてから読むとだいぶ面白く読めた。昔他の作品を読んだときは面白くなかったのだが、年齢とともに読み方が変わるんだなと思った(なおほぼ同じことを井上靖が巻末に書いてた)
  • 9月……引っ越しをした。以前住んでいたマンションは1ルームの学生マンションで、10年間住んでいた。だが2023年から2年間彼女とこの部屋で住んでて流石に無理があるだろ、という状態になっていたのでいい加減引っ越した。前の賃貸は流石に愛着が湧いてしまっていたのだが、引っ越して本棚なども買って今ではだいぶ快適に暮らしている。
  • 10月……10月ごろから12月まで、ずっと仕事忙しすぎて何もできてない。
  • 11月……結婚指輪と婚約指輪を買った。ダイアモンドの説明は本当に詐欺らている気分だった。4Cというものがあり、これはカラット、カラー、クリアリティ、カットの意味で、この4つのそれぞれでグレードがあるらしい。グレードが上がると価値が上がるのは理解できるのだが、一番意味不明だったのは大きさ(カラット)が0.199と0.200カラットでは1.5倍ぐらい価値が変わるという点である。SI単位系を使う人にしかその数字に意味はないし、その2つに見て取れるほどの違いはないのだが、大台に乗っているせいで高くなるとかいう説明を聞いたときには流石に耳を疑った。工業的に製造できるようになったダイアモンドに価値は感じられないとかいう話以前の問題だった。
  • 12月……忙しかったが、とりあえずパスポートだけ取った。


# 環境の変化

YouTubeを見る時間が多いのは2024年と同じである。見ている順だとRustの動画、QuizKnock、Valorantの動画、茸本朗、稲葉百万鉄、道との遭遇などが主である。

開発環境の変化としてはGitHub Copilotが主なのは変わらないが、もっぱらCodexを使っている。いまはCodex GPT5.1を使っているが、実験的にGitHub上のチャットで動かせるエージェントも使っている。これは勝手にPRを作ってくれるというやつで、割と便利であるが動作確認が面倒だな、というのが今の感想である。動作確認さえうまくやってくれるようになったらだいぶ楽になりそうだと思っている。

o3以降だと思うのだが、ちょっと下調べごとはもっぱらchatgptに任せてる。商品の相場も調べて提示してくれるので助かっている。

10月ごろから副業を初めてて、これがしんどすぎて辞めたいなぁというのが近況である。プライベートな開発が全くできてない位置年だった。

# 2025年に得たもの

あまりないなぁ。自分の変化よりも世界、もといAIの進化のほうが早すぎて何かを得た気になってしまっているきらいはある。

# 目標達成率

・新しい知識・技能・技術を身につける。

20点。Web関係に少し足を突っ込んだがあまり何もできてない。

・本を読む

50点。2025年は28冊しか読んでなかったらしい。今年はもっと読まないとな……。以下は良かった本だが、自分の興味のある分野で良い本をあまり引けなかったし、読書量が足りなかったなぁという印象。

  • 『学校の怪談: 口承文芸の展開と諸相』
    • これは良かった。学校の怪談というものをきちんと収集対象として認識していたのが偉い。収集してしまえばそれも他の神話・民話と同じようなダイナミクスにしたがって伝播・変化しているのだというのがよく分かるのがよい。こういった小学校の先生というような人たちがかつては草の根的な民話の収集や、郷土史の編纂をしていたのだがそういうのができなくなったという話を何処かで耳にしたが、この著者はそういった活動をしていた教師の一人なのだろう。
  • 『福翁自伝』
    • 福沢諭吉の自伝。荒俣宏が面白いと言ってたので読んだがたしかに面白い。価値観も世界観も全く違うのがいい。
  • 『講義のあとで』
    • 中村元など、大学教授等を退官した研究者らがこれまでの人生を振り返るようなエッセイに近い本。それぞれの研究者はこれまで研究してきたことや、自分の思想、これから調べたいことがらについて語っているが、もはや当たり前になっていることを実証したという話をするか、現在ではあまり通説にはなっていないような学説(間違っているように見える学説)を話しているかのどちらかであるというのが面白い。
  • 『知的生産の技術』
    • 面白かった。基本的には研究者が集めた情報はどう管理したらいいかという指南書になるのだが、一般人でも応用が効く内容である。今はmarkdownで色々やってるのだが情報が散逸しがちなのでやり方を変えたいと思っている。
  • アウトプット
    • 0点。ほぼ何もしてなかった。
  • 今まで興味を持ったことがなかった分野に手を出す
    • 0点。目標が曖昧な印象があるが……読書としてもあまりおもしろい方向性で本を手に取れてない。


# 2026年の目標

  • 新しい知識・技能・技術を身につける。
    • できればWebサービス構築の技術を身につけたい。
  • 本を読む
    • 2025年は読書量が少なかったので、40冊以上を目標にやりたい。あと読んだことない分野の本を読みたい。十進分類法的に空きのある項目を埋めてみたい。
  • アウトプット
    • 『知的生産の技術』のやり方を参考にもっと自分の情報を集めて、それをアウトプットしたい。
  • 今まで興味を持ったことがなかった分野に手を出す
    • 「本を読む」の目標に書いた項目をやるのが第一だろう。
  • お金のことを考える
    • もうちょい今年はお金のことを考えておきたい。


2025年7月6日日曜日

playwright mcpでChrome拡張機能をWebストアからインストールする方法

# 概要

Microsoftのplaywright mcpではただ起動しただけではChrome ウェブストアで拡張機能をインストールしようとしても「インストールが有効になっていません」「ダウンロード エラー: インストールが有効になっていません」と画面に表示されてしまいインストールができません。原因は起動オプションに拡張機能を無効化するオプションが含まれているためです。以下の手順でplaywright mcpを使った状態でChrome拡張機能をWebストアからインストールできます。

# 手順

以下のようなファイルを適当な場所に作成します。これは拡張機能を無効化するオプションを無視するような設定ファイルになります。

これでnpx @playwright/mcp@latest --config mcp.config.jsonとすれば拡張機能をインストールできるような状態で起動されるようになります。あとは各々のシステムに沿った設定ファイルを作成すれば終わりです。

2025年3月25日火曜日

悲劇には最小の悪意を、最大の善意を/『少女革命ウテナ』20話「若葉繁れる」について考える①

 # 概要

『少女革命ウテナ』の「若葉繁れる」は私が最も好きな話の一つである。この話は幾原邦彦監督が描きたいテーマがよく現れていることが、『輪るピングドラム』の主人公たちの立場を見るとよく分かる。この話の類話を無限に読みたいのだがあまり見つけられていないので、ひとまずこの「若葉繁れる」、アニメ『美少女戦士セーラームーン』の23話、24話についてすこし時間をかけて考えることで気持ちを抑えたいと思う。初回はこの話のあらすじと、面白い悲劇は悪意は少ないほど、善意は多いほど面白いのだという主張をまとめる。

# サブタイトル「若葉繁れる」について

色々話す前にまずは解題をしておこう。タイトルの「若葉繁れる」はおそらく井上ひさしの『青葉繁れる』から来ていると思われる。『青葉繁れる』は井上ひさしの子供時代の1ページを描いた話で、当時の価値観と現在の価値観の差に驚きを覚えた作品の一つであるが、「若葉繁れる」とは直接的な関係はなさそうなのでここには踏み入らない。

# あらすじ

西園寺はウテナと無理やり決闘したため退学となっていた。しかし西園寺は退学後いくあてもなく、学園に戻り西園寺を慕う生徒の一人だった若葉の部屋に居候していた。お揃いのカップでコーヒーを一緒に飲んだり、談笑したりする姿が幸せそうに描写される。

遠く手の届かなかった西園寺といっしょに暮らせているという事実を噛み締め、この秘密さえあれば私は特別なんだという思いを抱きながら家路を急ぐ。秘密を抱きながら生きる若葉の姿がウテナ視点で描かれるが、その姿は以前よりもずっと生き生きとしておりウテナはその様子を「綺麗になった」と表現する。なぜ若葉は「綺麗になった」のか疑問に思ったウテナは暁生に尋ねるとこの世にはウテナのように特別な人と特別ではない人がいるが、特別ではない人でもきっかけさえあれば輝くのだと語る。

ある日、西園寺は若葉が昼ご飯代として手渡した五百円で彫刻刀を購入し、葉の形をした木彫りの髪飾りを作る。「君の真心へのお礼だよ」と言いながら作りかけの髪飾りを見せられた若葉はあまりの幸せに涙を落とす。

しかし西園寺のいない学園、生徒会のことを聞いた西園寺は姫宮アンシーについて尋ねる。西園寺との生活が終わればきっと西園寺は自分のことを思い出すことがないだろうと思い至る。そんな折、御影草時は西園寺に接触して学園への復帰を約束する変わりに手彫りの髪飾りをもらう。そして髪飾りをつけた姫宮の姿を若葉に見せる。

秘密も、木彫りの髪飾りも奪われた若葉は御影草時に指輪をもらい、西園寺に会いに行く。西園寺は学園に戻ること、木彫りの髪飾りは渡せなくなったこと、代わりに高い感謝の品を郵送で送るとを伝える。気持ちはすでに学園に向いており、若葉のことはあまり見えていないようである。若葉は西園寺から刀を奪う。

ウテナは決闘会場で若葉に出会う。驚きでディオスの剣を抜くことをためらっている間に若葉はウテナではなく真っ先にアンシーへ突っ込む。若葉は「お前もその女も生徒会の連中もみんな私を見下してるんだ。なんの苦労もなく持って生まれた力を誇ってな。だからお前たちはみんな平然と人を踏みつけにできるんだ」と叫ぶ。ウテナは刀を奪い素手で若葉に勝利する。

# 悲劇には最小の悪意を、最大の善意を

この話は結局持つ者が勝ち、持たざる者が敗北するバッドエンドだと思っているが、私は大好きである。こういったバッドエンドの話、あるいは単に悲劇と呼ばれるようなストーリーは良作と駄作が極端に分かれている気がしている。そのうち優れた作品は善意に溢れており、そうでない作品は登場人物たちを意図的に悪い方向へと向かわせる悪意で満ちているのではないか……と思っている。

この説はどこかで読んだ受け売りだったと思うのだが、どこで読んだのか覚えていない。アリストテレスの『詩学』か、『宝石の国』の批評に書かれていたような気がするが未確認である。

出所は不明だがこの主張の勘所は簡単である。悪意に満ちた「悪者」の存在によって主人公が悲劇のラストを迎えることは当然のことであり、そこになんの面白みもないからである。話の書き手が描きたい「悲しいラスト」があるならば、そうなるような「悪者」を作りさえすればよい。話の受けてはそういう「作者の意図」、すなわち設定の作為性を感じとってしまい面白さは半減する。一方登場人物たちが善意でやっていることが裏目に出てしまい、最終的に悲劇を迎えるというのは通常起こり得ないことであり、だからこそ特筆性があり面白みがある。

また悪者が主人公に害をなし、結局生きながらえるような最後は勧善懲悪的なストーリーとして見たときに第二幕で終わってしまうような中途半端な作りとなってしまう。話として完成させるにはエンディングが第三幕であると受け手が感じ取るだけのカタルシスが必要となる*1。一方悪役が登場しなければ勧善懲悪的なストーリーとして受け手がミスリードされることはないだろう。「悪役が罰を受ける」というような安直な続きを想像することもない。

具体例を出そう。映画『ミスト』はネタバレが激しいので多くは書かないが、典型例である。『宝石の国』(序盤)は主人公のフォスはみんなの力になろうと努力するのだが、それが却って悪い結果を生むことになる。『進撃の巨人』も登場人物たちはみんな良かれと思って動いているが、その方向性が異なるために悪い方向へと話が進んでいく(故に板挟みになったあのキャラが輝くのである)。『ごんぎつね』もこの型に当てはまる作品である。他方駄作と呼ばれるものをあまり思い出せないのだが、ちょうど昨日見たブラック・ミラーの『Beyond The Sea』は酷かった。登場人物の家族がいかにもな悪役に殺されるところから話がスタートしている。その他の設定も最後のオチを作るために逆算的に作られた設定ばかりである。オチは簡単に当てられない程度には練ってあるけどグロテスクなだけで面白みは感じない。もちろんそれらは私の主観であるが。

話を「若葉繁れる」へ戻そう。この作品には多くの善意が存在しているが、それが最も効果的に寄与しているのは西園寺からのプレゼントであろう。西園寺ははじめ手作りの髪飾りを用意していたが、これは黒薔薇会によって奪われてしまう(この話の唯一の悪意である)。その代わりに西園寺は「それなりに高価な品」を「郵送」で渡すと伝える。西園寺に悪気はなく、社会的には十分な金額のお返しをするだろう。だが若葉の気持ちを知っている視聴者にとってはこの上なく切なく、つらいセリフである。

その後若葉はウテナと決闘し、ウテナはディオスの剣を使うことなく勝利する。「助けてあげる」といって剣を振るうことなく勝利するウテナに落ち度はないが、改めて持つものと持たざるものの差をここで感じざるを得ない。ウテナは選ばれたものしか持つことのできない剣を持ちながら使わずに勝つ一方、若葉は自分の剣(世界を革命する力)を持っておらず、剣を西園寺から奪わなければ戦えない。さらに剣で戦っているにもかかわらず敗北する。ウテナは助けてあげたと思っているかもしれないが、結局ウテナは若葉の気持ちを微塵も理解していないだろう……。

# 締め

「若葉繁れる」の良さを考えるうえで今回は善意と悪意という観点から分析してみた。次回は持つ者と持たざる者という観点から話を分析してみたい。

# 参考

# 脚注

*1 悲劇ではないが『時計じかけのオレンジ』など

2025年3月19日水曜日

私が体験した「学校の怪談」

 # 概要

『学校の怪談: 口承文芸の展開と諸相』という本を読んでいる。教師という立場であった著者は身近な民間伝承ととれる学校の怪談を収集し、それを分析することを試みている。直接子どもたちから聞き取っているため話の生々しさが感じられ面白いのだが、そういえば自分もいくつか学校の怪談、あるいは身近なところでまことしやかに語られた怪談というものがあったことをいくつか思い出したので書こうと思う。もっとも、当時の記憶を忘れないために書くので怪談とは関係ない当時の描写を多めに記す。

# プレハブ校舎の花子さん

私のいた小学校は、いわゆる小学校然としたコンクリート製の白い直方体の小学校だった。当時(2003年ぐらい)の私にとってはだいぶ古い建物に感じられていて、ジメジメとした北側の廊下や階段にはトイレのような、なんとなくいたくない雰囲気が漂っていた。教室の廊下側の窓は木枠の古い昭和の窓で、鍵は木枠の重なる場所に開けられた穴に金属製のかんぬきを差し込む形式だった。とはいえそれは当時の私にとっての感覚であって、今思い出す限りでは築30年ぐらいで、そこまで古い建物ではなかったように思う。

しかし今の築30年と当時の築30年では建物の頑丈さは全く違うものだったのだろう。小学2年生の頃に授業参観かなにかで土曜日に保護者とともに登校した。午前中で授業が終わり、児童が全員帰ったあとに屋上部分のコンクリートが崩れ落ちた。北側の部分が落ちたらしく瓦礫などを見た記憶はないのだが、これをうけて急遽校舎の一部を建て替えることになった。

校舎は3つの校舎が一直線につながっているような構造になっていたのだが、中央部分の校舎だけが建て替えとなった。そのためあれよあれよという間に渡り廊下がグラウンドに作られ中央の校舎を通らずに両端の校舎へ移動できるようになり、また足りない教室を補うために体育館の南側にプレハブ校舎が建てられた。プレハブ校舎は教室が3、4室とトイレがあるだけの平屋で、校舎よりもずっときれいな建物だった。だがしばらくしてトイレの花子さんが出るという噂が立つようになったのは汚い校舎のトイレではなく、このプレハブ校舎のトイレだった。

プレハブ校舎に現れた花子さんは、女子トイレの奥から何番目の個室を何十回か叩いたうえで「は~な~こさん」と呼びかけると「は~あ~い」と返事をするという他愛のない、典型的なものであった。私は一度だけその花子さんを呼び出している姿を見たことがある。十人ぐらいの女子児童が集まって個室を叩きながら「きゅう、じゅう、じゅういち……」と数字を数え、「は~な~こさん」と声を掛けると「は~あ~い」という弱々しい声が、しかしはっきりと聞こえてきた。どこから聞こえてくるのか判然としないその声に、当時は本物かもしれないと思ったものだが、そこにいた女子児童の何名かが同時に声を出していたことが声に不思議な印象を与えていただけであろう。

花子さんの召喚は女子しかできないため当時の自分は歯がゆく思ったのをよく覚えている。あるいはまたそういう話が女子トイレにだけあることが羨ましくも感じられたため、私は何か出そうな薄暗い男子トイレに「花男さんがでる」と言ってクラスメイトを何名か連れてきて自分で考えた召喚方法を試して「は~あ~い」と呟くのをやっていたがこれはあまり流行らなかった。プレハブのトイレは南に面していた(廊下が北で、教室やトイレはすべて南側だった)のでかなり明るく、幽霊なんかがでなさそうな雰囲気だったのが逆に良かったのかもしれない。

# 夜中の神社の祟り

今度は打って変わって私が高校生の頃、2014年ごろの話である。ある日学年でわりと目立つ生徒の一人が学校を休んだ。聞けば事故にあったという。後日腕を骨折した姿でその生徒は登校してきた。どうも免許取り立ての先輩らを含めて合計4人(ぐらい)で車に乗ってドライブしていたところ事故にあったらしい。一緒に車に乗っていた先輩はもっとひどいという話だった。

しかしその生徒と親しい生徒が声を低くして噂するには、事故の直前に4人は夜中に神社に寄っていたという。先輩らは面白半分で神社に乗り込んでいき、腕を骨折した生徒は怖気づいたのか一番最後に神社に入っていたらしい。実はその神社に乗り込んだ順番が怪我の程度とおなじになっているというのである。すなわち無礼な先輩は一番重い罰を与えられ、逆に先輩にいわれていやいや入っていった生徒は一番軽い罰を与えられたというのである。

この話はこれ以上語られることはなかったが、神社も我々がよく知る町で何番目かに大きい神社で、木々で囲まれた暗い、どこか厳かな雰囲気のある神社だったため真実だと思わせるような迫力があった。思えばその神社の前を通ると背筋がゾクッとするとか、そういう噂があったような気もする。

# その他

いくつか思い出した話を箇条書きで綴っておく

  • 山の近くの墓地には幽霊が出るので、走って前を通った方が良いという話が小学生の間であった
  • 母親の幼馴染には多少霊感の類があるらしく、嫌なものを感じるため家の中で見ないと決めている場所があるという。
  • 私の母親は私が反抗期で感情的になることが多かったころ、勝手口が丑寅の方角、鬼門に面しているからではないかと思ったという
  • 私の実家の前にある家は長く空き家で、幽霊屋敷として家の近くで囁かれていたという。人がいないはずなのに2階のカーテンが動いたとか、女性がいたという話があったという。


2025年1月6日月曜日

2025年最初の投稿

年が明けたので1年間の振り返りをしつつ今年の目標を決める。なおこの一年の総括は2021年以来4年ぶりになるが空白の時間を埋めるのは大変なので振り返りは2024年のみとする。

1. 概観

変化の激しい一年だったと思う。自分も大学を出た(退学した)し、就職を(一ヶ月ほどごねてニートした後に)したのだが、自身の変化よりも社会の変化のほうが大きかったように思う。言うまでもなく各種AIの台頭である。この話は長くなるので後述するとして、とりあえず1年の流れを振り返る。

2. 2024年活動履歴

今年は総じてYouTubeを見る時間が増えたなと思った。TweetDeckが2023/8に終わって、それからTwitterを見る時間が減ったので変わりにYouTubeを見る時間が増えた。主にValorantとRustの配信だが、茸本朗さんやホモサピさんといった野草などを食べてる人の動画を見ることが多いと思う。あとはPrimitive Technologyや週末縄文人という原始的な生活の再現系は好き。
  • 1月……大学の歴史をまとめていた。この頃はコロナ禍の大学の対応をまとめていた。今思うとこの記録はかなり貴重だと思うが評価されることはないだろう。
  • 2月……まだ大学の歴史をまとめていた。
  • 3月……大学を退学するのでその対処とかをしていた。Claude3が出てきて図書館の管理システムを作ってもらったら動くものができてきて衝撃を受けていた。裁判の傍聴をした。
  • 4月……ニート生活。gemini 1.5 Proのコンテキスト長が長くて良いと言ってる。多分三国志とか読んでたけどあんまり生産的なことはしていない。美味しんぼを見てた。
  • 5月……上旬に就活して即決したので以前からやりたいと思っていた名古屋-豊橋間の徒歩移動を決行した。下旬より就職。
  • 6月……アマチュア無線の試験を受けて3級に合格する。アツミゲシについて調べていた。
  • 7月……映画『帝都物語』を再視聴。
  • 8月……『帝都物語』の本を読みすすめる。
  • 9月……『帝都物語』の本を読み終わる。
  • 10月……地元が出てくるアニメ『負けヒロインが多すぎる』を見て人生で初めてライトノベルを新品で買う
  • 11月……『日本霊異記』を読み始める。
  • 12月……Gemini 2.0 Flash Experimentが日本語の縦書き画像の文字起こしができてて感動している。

3. 2024年に得たもの

特になし。学生時代と比べれば金を得たかもしれないがそんなに多いわけではない。博士号はほしかったが 得られずに終わった。

4. 目標達成率

4.1. コンピュータサイエンス・数学の勉強

40点。仕事を始めたので新しい技術に触れる機会はあったり、Embedded Rustをやってみたりはしたがあまり進捗があったとは言い難い。正直この先2年ぐらいでAIがやるんでしょ?という気持ちが選考するので積極的に学習するモチベが少ない。その代わりLLMに触ったりするのは積極的に行った。

4.2. 本を読む/勉強する

85点。2024年に読んだ本は47冊だった。帝都物語が重かったのもあるが少し少ない印象。一週に一冊ぐらいのペースで来年は読みたい。以下は良かった本。こう見るとノンフィクションの本で重い本をあまり読んでない。
  • 『帝都物語』……映画を再視聴したので重い腰を上げて読んだ。長編なので色々思うところが多い。①100年以上のスパンの作品になっており、悪役はずっと加藤保憲で正義側が代々受け継いでる形式はジョジョを彷彿とさせる。故に悪役のキャラデザが重要となるが、これは映画で嶋田久作が加藤保憲の演技をしたことで完成された感じはする。こんなに魅力的なキャラはそういないだろう。②過去の描写に全力を注いでいる点が素晴らしい。現実の中に虚構を交ぜた作品は好きではないのだが、詳細に当時の文化や歴史を描いているのが大変良いので何も文句はなかった。③三島由紀夫みたいな死後間もない人も含めて実在の人物を登場させるやり方が一周回って面白い。④妖怪や呪術の描写に文献の引用がちゃんとあるのが良い。ここが最も評価される点かもしれない。一方で過去の記述に忠実であるがゆえにビジュアル的なかっこよさが伴わないところもあり、エンタメとしては呪術廻戦などの描写に軍配が上がるだろう。簡単に総括することができない作品なのでなかなかレビューしにくい作品なのだが、総じて良かった。
  • 『日本霊異記』……帝都物語がしばしば言及されていた日本最古の仏教説話集。奈良時代の一般庶民の生活が垣間見えるのが大変良い。『遠野物語』のように短い作品がたくさんあるという形式で好きな話が幾つかある。個人的には上巻の20話が好きで、容貌の良い僧の姿を何人かの絵師に書かせたら皆観音菩薩の絵を持ってきて、その僧の正体が観音菩薩であることがわかるという話がある。これは攻殻機動隊の笑い男っぽさがあって良い。
  • 郷土史の本……杉浦明平『華山と長英』、加藤克己、石川洋一『田原藩 (シリーズ藩物語)』など。市史などを通読したことがなかったのだが、これを読むと一度全体を概観する意味でも市史を読んだほうが良い気がしてきた。

4.3. 技術的なアウトプット

50点。全くしていない。だがWikipediaを書いたり大学の歴史をまとめてネットに公開したりしていて、それは本一冊分に相当するアウトプットだったのでまぁいいかなと思ってる。

4.4. 新しいことへの挑戦

50点。LLMを触るのは積極的にやったが、これが果たして新しいことへの挑戦になるかといえば否であろう。もはやLLMを触ることはこの世界で生きていくことで必須のことになりつつある。アマチュア無線を始めたり、世界史の単語を覚えるのを少し始めたのは新しい挑戦だった。

5. 2025年の目標

・新しい知識・技能・技術を身につける。
 コンピュータサイエンス・数学の勉強の勉強など基礎的な事柄をやるモチベがLLMの台頭により減ってしまった。
・本を読む
 量を求めれば質も得られるという気持ちでやっているが、今年はもっと頑張りたい。
・アウトプット
 興味が技術方面だけではなくなったので動画、文章などをアウトプットすることをしたい。
・今まで興味を持ったことがなかった分野に手を出す
 アマチュア無線は結局開局して終わってるが、そういう方面で視野を広げたい。

2024年8月20日火曜日

伝馬町一里塚の本来の場所の調査

先日、名古屋から豊橋まで東海道に沿って歩いてみました。その際に一里塚の写真を撮影しながら歩いていたのですが、後で調べたところ伝馬町一里塚の場所が間違っているかもしれないということを聞きました。そこでその真偽を調査した結果を記述します。

1. 背景知識

東海道の一里塚は江戸の日本橋から一里(約4km)ごとに築かれた塚で、道の両側に作った盛土にエノキやマツが植えられていたものです[1]。愛知県だと来迎寺一里塚の保存状態が良く、道の両側の盛土が今でも残っています。


保存状態の良い来迎寺一里塚

伝馬町一里塚もそういった東海道沿いに築かれた一里塚のひとつなのですが、現在その面影は残っていません。『史跡あつた』には「ほとんど人々の気づかない間に姿を失ってしまった」ようで、南側の方の塚は「明治末期頃まで見ることができたが、いつのまにか姿を消してしまった」とのことである[1]。 
しかしGoogle Mapで調べると伝馬町一里塚の跡とされる場所が表示され、そこにはそこが伝馬町一里塚のあった場所だと主張する看板さえ立っている。それが正しければなんの問題もなかったのだが、この場所が間違っているらしいのだ。

Google Mapで示される伝馬町一里塚跡の写真。一里塚のような雰囲気はあるが……

各地の一里塚の写真などを掲載されているサイトには、古文書を元に調査したあ結果、正しい場所ではないという説があると書かれている[2][3]。しかしその古文書が何なのか、本当の場所はどこなのかは書かれていない。

2. 伝馬町一里塚の本当の場所はどこなのか

まずインターネットで調査すると、「名古屋市文化財保護室の伊藤厚史さんによると、元々、塚があった場所は改修された新堀川の底に沈んでいる」という事柄が朝日新聞の記事に掲載されているのを発見した[6]。文化財保護室の人ということで信憑性の高い情報になるが、文献などは記されていない。また熱田区の歴史を調べている個人のブログに「本来の一里塚は、おそらく国道1号線の新堀川に架かる新熱田橋付近と思われる」という記述がある[7]。この記事では『尾張国町村絵図』を引用しつつ築出鳥居の位置を推定しているが、その地図には一里塚が写っており、確かに現在の看板よりも東に一里塚が描かれている。また平凡社の『愛知県の地名』の174ページに、「裁断橋の東に熱田社の築出鳥居があり,近くに一里塚があった」と書かれているようです[5]。

国立国会図書館デジタルコレクションで書籍の情報を調査しましたが、『史跡あつた』に「八町畷を過ぎ宮の入口にかかる両側にあった」というざっくりした記述が確認できたのみでした[1]。八町畷という地名はどうやら今は残っていないようだが、「明治天皇八町畷御野立所」という場所が東ノ宮神社にあるようです。八町畷の範囲はわからないものの、この場所は現在看板がある場所から1kmほど東の場所にあり、この記述からでは正確な一里塚の位置はわかりません。

3. 古地図を現在の地図と重ね合わせる

幸い熱田神宮というかなり由緒正しい神社が近くにあったおかげで、このあたりの古地図はかなり多く残されているようです。閲覧しやすいものだと『名古屋市史 地図』に「熱田神領字入圖」が掲載されています[8]。これは文化元年(1804年)に作られたものを安政6年(1859年)に写したもののようです。築出鳥居の東に道の両側に木の絵が書かれており、これが一里塚だと思われます。その他にも『尾張国町村絵図』など多くの書籍でこの地域の地図は確認できるようです[9][11]。

私は愛知県図書館に所蔵されていた『蓬左文庫所蔵古地図複製 No.10』の一里塚周辺の地図を複写してきたので、それを現在の地図と重ね合わせてみたいと思います。下図がその複写で、写真の右側にある道に「一リツカ」と書かれています。


『蓬左文庫所蔵古地図複製 No.10』の複写。実際のものは熱田神宮全体を描いた大きな地図でフルカラーである。複写機に写しきれなかったので一部分になる。天保年間の写しということで著作権は切れている。

さてこれを現在の地図と重ね合わせてみます。QGISというフリーのGIS(地理情報システム)のジオリファレンスという機能を使うと、縮尺や方角などがわからない地図を重ね合わせることができます。古地図に掲載されているもので現在にも残っている場所としては宮の渡し公園にある「熱田湊常夜灯」、精進川(現在の新堀川)と東海道が交わる場所にある「姥堂」、「景清社」、「善福寺」などがあります。それらの点を入力した結果、このような形になりました。なお背景に使っているのは国土地理院の基盤地図情報です[10]。

古地図と現在の地図を重ね合わせた図

現在と当時では場所が変わっていたり、そもそも元の地図が不正確だったりするためピッタリ合うわけではないですが、それでも現在の地図とかなり沿った状態で重ね合わさっています。これを見る限りでは確かに一里塚は新堀川のすぐ近くにあり、名古屋市文化財保護室の方の「新堀川の底に沈んでいる」という言葉と概ね合致します。なお『尾張国町村絵図』も図書館で複写してきて重ね合わせたところほぼ同じ場所に重なりました。ただし、局所的には重なっているのですが大域的には重なっているとは言い難いため、ここでは言及するにとどめます。

4. まとめ

現在看板が建てられている場所と実際の場所がことなると言われている伝馬町一里塚の場所を、愛知県図書館所蔵の古地図『蓬左文庫所蔵古地図複製 No.10』を参照して調査した。古地図の誤差や重ね合わせの誤差などはあるものの、概ね現在の新堀川のすぐ近く、熱田橋周辺であると推定された。この結果は名古屋市文化財保護室の方の「新堀川の底に沈んでいる」という発言と概ね合致しており、この発言の信憑性を裏付けるものとなった。

[1] 熱田研究よもぎの会 編『史跡あつた』(1962)  https://dl.ndl.go.jp/pid/2975735/1/31
[2] 東海道一里塚 東海道の一里塚 伝馬町里塚 でんま町一里塚 http://itirituka.rakuchu-rakugai.com/matome119/tuka84.html
[3] 東海道:伝馬町一里塚 http://hat.la.coocan.jp/data/tokaido/tokaido089.htm
[4] 明治天皇八町畷御野立所 | 明治天皇聖蹟巡り https://meiji.fromnara.com/2020/02/23/明治天皇八町畷御野立所
[5] ふらっと旧東海道/愛知県・熱田伝馬町一里塚 https://www.asahi-net.or.jp/~vn6i-hgwr/toukaidou/atsuta-denmatyou.htm
[6] 朝日新聞デジタル:街道こぼれ話)一里塚 - 愛知 - 地域 http://www.asahi.com/area/aichi/articles/MTW20180731241640006.html
[7] 火高地古道(ひたかじのふるみち) : 尾張名所図会を巡る https://nitibotu.exblog.jp/9767000/
[8] 名古屋市 編『名古屋市史 地図』 https://dl.ndl.go.jp/pid/3449146/1/66
[9] レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000072751
[10] 基盤地図情報ダウンロードサービス https://fgd.gsi.go.jp/download/menu.php
[11] 徳川黎明会 編『尾張国町村絵図 名古屋市域編』(1988)   https://www.library.city.nagoya.jp/licsxp-opac/WOpacTifTilListToTifTilDetailAction.do?urlNotFlag=1

2024年6月6日木曜日

名古屋~豊橋間を東海道を歩いて移動した話

『東海道中膝栗毛』を読んでから、ずっと東海道を歩いてみたいと思っていたのですが、先日名古屋(伝馬町一里塚)から豊橋(下地一里塚)まで2日間かけて歩きました。せっかくなので東海道各地の風景写真を紹介しつつ、東海道を歩く楽しみというものを紹介したいと思います。なお本稿に掲載されている写真は2024年5月に撮影したものです。

1. 目的

今回の旅の目的は江戸時代の人の旅を追体験しながら下宿先(名古屋)から地元(豊橋ではないが豊橋周辺)まで歩くことにしましたす。当時の旅といえばお伊勢参りという伊勢神宮への参詣がもっともポピュラーなものだったでしょう。『東海道中膝栗毛』も東京(江戸)に住む主人公二人が東海道を歩いてお伊勢参りする話になっています。ですから当時の人があるいた東海道を自分も歩いてみることで、どんな感じだったのかというものを考えながら歩いてみます。

2. 歩行距離

では実際に1日にどのぐらい歩くかについてですが、今回は30kmとしました。この数字には2つ理由があります。ひとつは前回の失敗の経験から決めたものです。実は私、2018年に歩いて実家に帰ることを試みたことがあります。その際にはあまり事前調査することなく歩き出したので、荷物が重く、道もわからず、結局途中で諦めてしましました。7時間半で37km歩いて安城市で一泊し、電車で家に帰りました。その経験から30km以上歩くのは困難だろうと思い、この数字としました。

もう一つは江戸時代の人も一日に30km前後歩いていたという情報を耳にしたためです。インターネットで調べたところ、当時の日記を調査した結果などから出てきた数字のようです[1][2]。江戸時代の人の旅を追体験することが目的ですので、この数字を採用しました。

以上2つの理由から一日に30km歩くこととしました。また名古屋~豊橋間はちょうど60kmであったため、その中間の岡崎市でホテルに宿泊することとなりました。

3. 準備

前回歩いた経験から①歩道のある安全な道を選ぶこと、②歩いている間の暇つぶしが要ること、③荷物の軽量化の3つが解決すべき問題になることがわかっています。それらの対策を今回はあらかじめ行いました。

①歩道のある安全な道を選ぶこと
国道1号線は東海道に沿って作られています。国道が横にあるため車通りは少なく、また国道によって潰されている区間は国道の歩道を歩けば問題ありません。したがって今回は東海道をきちんと歩けば問題ないことがわかりました。

Google Mapで東海道を探すのを容易にするために、かつて東海道沿いに作られていた一里塚をGoogle Mapに登録しておきました。一里塚についたら次の一里塚への経路を表示させれば、概ね東海道沿いに経路が示されるので、旅がかなり楽になりました。なお一里塚や宿場跡の情報は「東海道を歩く - 旧街道ウォーキング - 人力」というサイトを参考にしました[3]。


②歩いている間の暇つぶし
「石を投げれば遺跡に当たる」と言っていいほど東海道沿いには歴史ある場所が並んでいます。そのため一里塚や看板などを探しながら歩けばそこまで苦にはなりません。また私が歩いたのは5月だったため、道端に咲く花を見ながら歩くこともちょうどいい娯楽でした。しかし、国道によって東海道が潰されている区間はかなり暇でした。私はAmazonのaudibleという本の読み上げサービスに契約し、落語や興味がある本をあらかじめダウンロードして置くことでこの問題を解決しました。

③荷物の軽量化
前回歩いたのは12月だったのですが、着替えや本、携帯端末など多くの荷物を持ちながら歩いたためかなり辛いものでした。今回は5月という歩きやすい季節を選んだため、着替えもあまりかさばらずに済みました。

その他、杖を購入することも検討しました。歩いた経験から言えば、買っておけばよかったかなと思っています。

4. 各地の写真

4.1 伝馬町一里塚

出発地点として選んだのが伝馬町一里塚ですが、石碑などはなく、看板が立っているだけでした。看板には読みにくくなっていましたが地図が書かれており、この看板の裏が一里塚跡だったと説明されているようです(まだ読める時に撮影された写真がサイト[4]に掲載されています)。

サイト[4]にはここが一里塚のあった場所ではない可能性があると書かれています。出典が明記されていなかったので細かく調べられてはいないのですが、熱田区の古地図である『蓬左文庫所蔵古地図複製No.10 熱田 尾張志付図』を見る限りでは築出鳥居があったのがこのあたりで、一里塚はもう少し東側に描かれているように見えます(調べた結果は後日別の記事にするつもりです)。

なお余談ですが、ここの通りを西に真っ直ぐ行くとGoogle Mapで「旧東海道 道標・上知我麻神社跡」と書かれている道標があり、ここが東海道であったことに間違いはなさそうです(道標周辺の1987年ごろの地図は文献[5]にかかれています)。


伝馬町一里塚跡とされる場所

伝馬町一里塚にあった看板の写真


4.2 笠寺一里塚

伝馬町~笠寺にかけてはお寺なども多く、歴史的な場所がきちんと保たれているようでした。笠寺一里塚はまだ塚らしいこんもりとした小山が残っており、大きな木が植えられていました。

笠寺一里塚

4.3 鳴海、有松一里塚、有松

笠寺一里塚~有松にかけては歩いていてかなり楽しい区間でした。道路に描かれた絵にも東海道の絵が書かれたりしており、東海道なのだという意識がきちんと残っているようです。この区間だけでももう一度歩いてみてもいいかなと思えた場所です。

まず鳴海城跡です。ごく普通の公園となっていましたが、堀の跡などが近くに残っていました。

鳴海城跡。現在は公園になっている。

鳴海城跡には「信長攻略」という新しい看板が立っていました。どうやら名古屋市が信長ゆかりの地にこういった看板を作っているようです[6]。東海道を歩いていると遺跡等は地域によって保存率は大きく異なっており、こういった市の制作などによって新しく看板などを立てたり、保存していかなければ失われるものなのだということを感じます。

信長攻略 鳴海城跡公園

次に鳴海宿高札場です。鳴海城跡のすぐ近くにありました。2009年11月に復元された比較的新しいもののようです。高札場は今回の旅では3箇所ほど見たと記憶しています。


鳴海宿高札場(復元)


鳴海宿高札場に掲げられた看板

名古屋市内でお金があるのか、常夜灯やお寺などにも名古屋市教育委員会が設置した看板があちこちにありました。

そして有松一里塚です。きれいにされており、きちんと保存されているようです。

有松一里塚


有松一里塚の説明

ここからは「名古屋市有松伝統的建造物群保存地区」に入ります。ここからしばらくは当時の町並みが保存されている地区で、木造家屋や建物の説明が書かれた看板が多く立てられていました。ここにいちいち来る人はあまり多くないでしょうが、東海道を歩いている人にとってはちょうどいい娯楽となっており、非常に楽しく歩けるエリアでした。

有松地区の様子


この地域がかつての町並みを保存する地区であることを説明する看板



山車を保管する施設

4.4 阿野一里塚

一里塚は道路の両サイドに塚が作られたそうですが、ここは両方とも残っている貴重な一里塚のようです。このあたりに来ると流石に脚がじんわりと痛くなってきました。このあたりを歩いているときには東海道沿いをゆっくり自転車で走りながら花の写真をとっている人がいて、同じように東海道を歩いているのだろうかと思いながら歩いていました。


阿野一里塚をパノラマ撮影したもの。


阿野一里塚に掲げられていた看板

阿野一里塚におかれていた句碑


句碑の説明

なお阿野一里塚~一ツ木 一里塚の区間は最も歩いていてつまらない区間でした。工場が多く、トラックもたくさん走っていたので少々ストレスフルな区間でした。もっとも、東海道から少しずれて国道を歩いていたのは大きな要因で、このあたりには十王堂などもある(あった?)らしいことが一ツ木一里塚の看板に書かれていました。次回この区間を歩くときには東海道や、一本外れた道を歩いたほうが良さそうです。

4.5 一ツ木一里塚

写真左に見えるのがおそらく一里塚の名残りです。歩道橋の下に小さな看板がおかれており、そこにこの周辺の地図と説明が書かれていました。

一ツ木一里塚の様子


一里塚にあった説明文

4.6 池鯉鮒宿、来迎寺一里塚

池鯉鮒宿~来迎寺一里塚あたりは民家も多く、季節の花が道端に咲いていて歩いていて楽しい区間でした。これといって目立った史跡などがあったわけではないのですが、道端の花の写真を多く撮影しながら歩いていました。


「知立」は読みにくい地名だと思っていましたが、昔は池鯉鮒と書いたようです。

道路沿いにおかれていた花々。いい匂いがして思わず撮影してしまった。

そして来迎寺一里塚につきます。来迎寺一里塚は私が訪れた一里塚の中では最も保存状態が良さそうで、道の両脇の塚が残っていました。立派な石碑や看板が掲げられているほか、少し休める場所もあったので大変心地よい場所でした。

来迎寺一里塚の写真


来迎寺一里塚におかれていた石碑(表面)


来迎寺一里塚におかれていた石碑(裏面)


来迎寺一里塚におかれていた看板


来迎寺一里塚周辺の遺跡を示した看板

暫くそこから歩くと、看板に書かれていた松並木が見えてきます。東海道沿いには松がよく植えられていたのか、旅の途中に松並木は各地で見ることができました。ここもそうですが、松並木が残っているエリアでは地元の小学生が卒業記念に新しく松の木を植えているようです。子どもたちが植えることで「自分たちの松」という意識が生まれ、将来的にも松の木が守られることを図っているようでいいやり方だなと思いました。


松並木

松に関連して、ここから東に更に行くと永安寺というお寺につきます。ここの松は最も印象深く残っている松です。1.5 mの高さで上に育つのではなく、横に育つという珍しい形に成長したようです。お寺のゆかりも非常に心を打つものがあり、徳のあるお寺だからこそそういった松が生まれたのではないかと感じてしまうものでした。


永安寺の雲竜の松


永安寺および雲竜の松の説明

4.7 尾崎一里塚

石碑が残るのみだったが、この周辺は海軍航空隊の練兵場などがあったらしく、それについての看板や石碑が多く立っていた。わずか80年前のことでさえあっという間に風化してしまい、看板を立てているのだから、いわんや一里塚をやと言ったところだろう。

尾崎一里塚碑


英霊招魂碑


予科練之碑


元第一岡崎海軍航空隊配置図

4.8 矢作一里塚

Google Mapに従ってやってきたのだが、現地には看板も石碑もなにもない。もしかしてGoogle Mapが間違っているのではないかと思い調査したが、『岡崎 : 史跡と文化財めぐり』に「塚の築かれた地点としては(中略)矢作(矢作町宝珠庵)にあった」とあり、このあたりの地名が宝珠庵であるらしいことからこの辺りで間違いはなさそうである[7]。とはいえここまで何も無いのはこの度では矢作一里塚のみであり、なにか看板でも置いて欲しいなぁと思うばかりである。


矢作一里塚があったとされる場所の周辺の様子


矢作一里塚があったとされる場所の周辺の様子

4.9 岡崎宿

今回の旅程では30km地点である岡崎市で宿泊することにし、あらかじめホテルを予約しておいた。ホテルにつくと急に足が痛みだし、足湯などをやってみたがあまり効果は感じられなかった。


岡崎城周辺の様子。急に雨が降り出して困った。

岡崎市は割と東海道に関する場所の石碑や看板がおかれていた。やはり大きい都市はそういったことをやるだけの金銭的余裕があるのだろう。

おそらく宿場の入口の門を再現したもの。


岡崎城下二十七曲りの説明

4.10 大平一里塚

二日目に入って最初の一里塚である。足の痛みはかなりのものだが、歩いていると次第に痛みが和らいでいくのだから不思議である。ここの一里塚は
比較的保存状態の良い一里塚だった。参考文献[7]に素描があるが、それとほとんど変わりがない。


大平一里塚
大平一里塚から藤川までの道のりはかなり歩いていて心地よいものだった。大きな川(乙川)を超えるところは心地良い風が体の中を吹き抜けて、なんでもないはずの風景が美しく感じられた。


岡崎宿周辺について記載した看板


乙川。ものすごく美しく感じたのだが、写真でみるとそうでもない。不思議なものである。

4.11 藤川、藤川一里塚

藤川は松並木や、十王堂など多くの史跡が残っている場所で、歩いていて楽しい場所だった。見渡す限りの田と山といった様子で、こういう場所でひなたぼっこしたいなと思うばかりであった。ここでも地元の小学生が松を植樹していた。

藤川の松並木

十王堂


藤川宿の一里塚は残っていないようで、看板のみがあった


藤川宿の史跡などを示した看板


本陣跡。高札場跡は別の場所だったが、再現されたものはここに設置されていた。


藤川から少し移動した場所にある水田。本当に心地よかった。

4.12 本宿一里塚跡

本宿の一里塚は石碑が残るのみだった。とはいえこの周辺にはぼちぼち史跡があったようだがあまり発見できなかった。少し道を間違えていたのかもしれない。


本宿の一里塚跡


本宿の一十王堂。公民館のような外見だが、扉の隙間から十王像を見られる。


本宿の史跡などを示した看板

本宿旧代官屋敷にあった石垣。作り方が独特だったため撮影した。


天皇と家康は休むだけで史跡になるのだからすごいものである。


史跡の説明


本宿の入口

この地域はルネッサンス事業委員会というところが看板などを設置していたらしい。

ここからしばらくは国道沿いに歩くことになり、史跡などには巡り会えなくなる。

4.13 長沢、長沢一里塚跡

長沢では川が近くを流れており、きれいな水田が広がる場所だった。水面下には多くのオタマジャクシが確認できた。


長沢の水田

長沢城跡の説明が書かれた看板

長沢一里塚跡
一里塚跡上部にはこの場所を描いた東海道分間延絵図が掲載されていた

4.14 赤坂、御油一里塚跡

赤坂はかなり多くの史跡や看板があった。


赤坂の史跡を記した看板

大橋屋(旧旅籠鯉屋)と脇本陣(輪違屋)についての看板


赤坂代官所(陣屋)跡についての看板

大橋屋(旧旅籠鯉屋)の正面の様子


大橋屋(旧旅籠鯉屋)の間取りについての看板


赤坂宿のまつりについての看板


高札場周辺の様子

御油は松並木が多く残っていた。公園のような場所と隣接しており、いい雰囲気の場所であった。時間ギリギリで歩いているため長居はしなかったが、もうすこしゆったりここを楽しみたかったところである。

御油の松並木

十王堂

「弥次郎兵衛、喜多八もあるいた 御油の松並木」と書かれた看板。残念ながら文字がかすれてしまっている。


御油一里塚跡

大社神社の近くに立てられた石碑に「戦死者 玉島好彦のために 子を思ふ 親の心の悲しさよ 孫なき吾子の 名をば止めん 常治」と書かれていた。和歌や古文に疎いものの、子供を作ることもないまま亡くなった自分の子供の名前だけでもとどめておきたいという親の気持ちが伝わってくる。戦時には名前を残すことなく亡くなってしまった人が多くいたのだということを思い知らされる。
大社神社の近くに立てられた石碑

このあたりは明治天皇が通ったようで、史跡がしばしば残っていた。天皇と家康は休むだけで史跡になる(n回目)

明治天皇が休憩したことを示した看板

4.15 伊ノ奈一里塚跡

正直このあたりは発展していること、豊橋という見知った町ということ、更に疲れがかさんでいることから、あまり写真などを撮っていませんでした。


伊ノ奈一里塚跡


伊奈村立場茶屋の看板。明治天皇が使った箸が残っているというのはなかなか奇妙な話である。

4.16 下地一里塚跡

私の旅における最後の一里塚でした。本当は江戸時代からあったとされる豊橋(とよばし)なんぞを見て感慨にふけりたかったのですが、駅に行って実家へと電車で向かったのでした。


下地一里塚

5.まとめ

今回の旅は個人的にはかなり楽しいものでした。以下が今回の反省点と知見です。

  • 現在「大きい道」といえば4車線~6車線程度の広い道を想像するが、車が走っていない江戸時代にできた東海道は、一里塚を見る限りそこまで広くはなかったことが実感できた
  • 一里塚かかなり正確で、ほぼ1時間に1回目にすることになった。こういったマイルストーン(マイルストーンは一里塚である)があったおかげで、いい刺激を得ながら飽きずに歩けた
  • 東海道は歴史ある道であるため、要所要所に史跡があり、これもまた良い刺激であった
  • 足は限界を超えると歩いていたほうが痛くなくなる。宿に泊まったときや、2日目の朝などはかなり痛くて困ったのだが、歩いてみるとあまり痛みを感じなくなった。
  • 今回は江戸時代の人に倣い、1日30km、2日で60kmを歩いた。私は20代で運動不足というほどではないのだが足はかなり痛くなった。正直一週間連続で歩くのは不可能だと感じた。なお江戸時代の頃はいくつかの川には橋がかかっておらず、川の増水で足止めを食らったり、あるいは七里の渡しという船旅をする経路があったりと、歩かない時間がそれなりにあったので負担が軽減されていたのかなと思った。当時のお伊勢参りの日記を確認すればわかるのだろうが、未確認である。
  • 家に帰ってから確認したところ、直径1.5cm程度のマメが足にできていた。
  • 1日目は47,046歩、2日目は49,261歩であった(下図参照)
  • 史跡が多く、飽きることはなかったものの、歩いているがゆえに時間が気になり、十分に史跡を堪能できないことも多かった。もしもう一度同じ道のりを行く場合は自転車に乗りながら今回と同じように2日かけて移動するのが良いと感じた。

1日目の万歩計の記録


2日目の万歩計の記録

6. 参考文献

[8]~[13]は本文では参照リンクはないものの、執筆時に確認した資料である。

[1] 江戸時代に旅行した人は1日に何キロくらい歩いたのか。平均、一般的な数値でよいので知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000139827&page=ref_view

[2] 【第16回】みちびと紀行 東海道を往く~シーズン1を終えて | 特定非営利活動法人新日本歩く道紀行推進機構 https://michi100sen.jp/specialty/michibito/016.html
[3] 東海道を歩く - 旧街道ウォーキング - 人力 https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/
[4] 東海道:伝馬町一里塚 http://hat.la.coocan.jp/data/tokaido/tokaido089.htm
[5] 稲神和子 著『大和路・いせ路道標の旅 2版』1987年 P197 https://dl.ndl.go.jp/pid/9576354/1/102
[6] 【信長攻路】桶狭間の戦い 人生大逆転街道 |愛知名古屋の歴史にちなんだおすすめコースや観光スポットをご紹介 https://nobunaga-kouro.nagoya/
[7] 岡崎の文化財編集委員会 編『岡崎 : 史跡と文化財めぐり』 https://dl.ndl.go.jp/pid/9539743/1/39
[8] 八幡義生『東海道 : 安藤広重の『東海道五十三次』と古道と宿駅の変遷 (歴史と風土 ; 10)』  https://dl.ndl.go.jp/pid/9568791/1/131
[9] 秋好善太郎 編『東海道 : 広重画五拾三次現状写真対照』z』 https://dl.ndl.go.jp/pid/966629/1/90
[10] 尾崎士郎 編『東海道歴史散歩 (河出新書)』 https://dl.ndl.go.jp/pid/2978269/1/68
[11] 森川昭 監修『東海道五十三次の事典 (サン・レキシカ ; 36) 』  https://dl.ndl.go.jp/pid/9571629/1/85 
[12] 日本の美社『東海道五十三次宿場の旅』 https://dl.ndl.go.jp/pid/9569692/1/42
[13] 関西道路研究会『東海道道路調査報告書 昭和9年11月』  https://dl.ndl.go.jp/pid/1235010/1/23